東大寺に行ってきました!~朝がおススメです!午前7時30分より、二月堂・三月堂追加しました。

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【東大寺】

東大寺(とうだいじ)は、
奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院です。

正式名称は、
金光明四天王護国之寺
(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、
奈良時代(8世紀)に
聖武天皇が国力を尽くして建立した寺院です。
「奈良の大仏」として知られる
盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、
開山(初代別当)は良弁です。

奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、
東西2つの七重塔
(推定高さ約70メートル以上と伝わる)を含む
大伽藍が整備されていましたが、
中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失しました。
現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に
当初の部分を残すのみです。
また現存する大仏殿は
江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、
創建当時の堂に比べ、
間口が3分の2に縮小されています。
「大仏さん」の寺として、
古代から現代に至るまで広い信仰を集め、
日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院です。
聖武天皇が、
当時の日本の60余か国に建立させた
国分寺の中心をなす
「総国分寺」と位置付けされていました。

東大寺は1998年12月に、
古都奈良の文化財の一部として、
ユネスコより世界遺産に登録されています。

【東大寺の歴史】

【前身寺院】
8世紀前半には大仏殿の東方、
若草山麓に前身寺院が建てられていたそうです。
東大寺の記録である「東大寺要録」によりますと、
天平5年(733年)、
若草山麓に創建された金鐘寺
(または金鍾寺(こんしゅじ))が
東大寺の起源であるとされているそうです。
一方、正史「続日本紀」によれば、
神亀5年(728年)、
第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が
幼くして亡くなった皇子の菩提のため、
若草山麓に「山房」を設け、
9人の僧を住まわせたことが知られており、
これが金鐘寺の前身とも見られているそうです。
金鐘寺には、8世紀半ばには
羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、
このうち羂索堂は現在の法華堂
(=三月堂、本尊は不空羂索観音)
を指すと見られています。
天平13年(741年)には
国分寺建立の詔が発せられ、
これを受けて翌年の天平14年(742年)、
金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、
寺名は金光明寺と改められたということです。

【大仏殿建設】
大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、
このころから「東大寺」の寺号が
用いられるようになったと見られています。

なお、東大寺建設のための役所である
「造東大寺司」が史料に見えるのは
天平20年(748年)が最初であるそうです。
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのは
それより前の天平15年(743年)です。
当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていましたが、
天皇は恭仁京の北東に位置する
紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、
大仏造立もここで始められたそうです。
聖武天皇は短期間に遷都を繰り返しましたが、
2年後の天平17年(745年)、
都が平城京に戻ると共に
大仏造立も現在の東大寺の地で
改めて行われることになったそうです。
この大事業を推進するには
幅広い民衆の支持が必要であったため、
朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、
協力を得たとのことです。

難工事の末、大仏の鋳造が終了し、
天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として
大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは
天平勝宝4年(752年)のことでした。
そして、大仏鋳造が終わってから
大仏殿の建設工事が始められて、
竣工したのは天平宝字2年(758年)のことでした。

東大寺では大仏創建に力のあった
良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を
「四聖(ししょう)」と呼んでいるそうです。



【盧舎那仏(るしゃなぶつ)】
盧舎那仏の名は、
宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、
世界を照らす仏・ひかり輝く仏の意味とのことです。
左手で宇宙の智慧を、
右手に慈悲をあらわしながら、
人々が思いやりの心でつながり、
絆を深めることを願っておられるということです。
東大寺・盧舎那仏

国宝。指定名称は「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」。
像高は14.7メートルです。
大仏は「華厳経」に説く
盧舎那仏という名の仏です。
盧舎那仏は「蓮華蔵世界」
(『華厳経』の説く世界観)の中心に位置し、
大宇宙の存在そのものを象徴する仏です。

【木造如意輪観音坐像・虚空蔵菩薩坐像】
木造如意輪観音坐像・虚空蔵菩薩坐像(重文)
大仏の左右に脇侍として安置されています。
これらの像は大仏(銅造)とは異なり
木造の寄木造です。
大勧進公俊の時代、京都の仏師山本順慶一門と、
大坂の仏師椿井賢慶一門らにより、
30数年をかけて製作されたもので、
江戸時代の代表的な仏教彫刻です。
如意輪観音像は元文3年(1738年)ごろの完成、
虚空蔵菩薩像は遅れて宝暦2年(1752年)の完成。

<如意輪観音像>
如意輪観音像

<虚空蔵菩薩坐像>
虚空蔵菩薩坐像

【金銅八角燈籠(国宝)】
大仏殿の正面に立つ燈籠です。
総高464センチ。
たびたび修理はされていますが、
基本的には奈良時代創建時のものです。
火袋羽目板4面には
楽器を奏する音声菩薩(おんじょうぼさつ)像を鋳出しています。
4面の羽目板のうち
西北面と西南面が当初のもので、
東北面と東南面はレプリカです。
東北面の羽目板は1962年に盗難に遭い、
直後に発見されましたが、
その後はオリジナルは別途保管し、
燈籠にはレプリカを取り付けています。
東南面の羽目板のオリジナルは早くに紛失してしまいました。

<金銅八角燈籠と大仏殿>
金銅八角燈籠と大仏殿

【歴史】

【奈良時代・平安時代】
奈良時代の東大寺の伽藍は、
南大門、中門、金堂(大仏殿)、
講堂が南北方向に一直線に並び、
講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、
僧房の東には食堂(じきどう)があり、
南大門と中門の間の左右には
東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が
回廊に囲まれて建っていたそうです。
天平17年(745年)の起工から、
伽藍が一通り完成するまでには
40年近い時間を要しているとのことです。

平安時代に入ると、
桓武天皇の南都仏教抑圧策により
「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受け、
また講堂と三面僧房が失火で、
西塔が落雷で焼失したり、
暴風雨で南大門、鐘楼が倒壊したりといった事件が起こりました。
が、後に皇族・貴族の崇敬を受けて
黒田荘に代表される多数の荘園を寄進されたり、開発しました。
やがて、南都の有力権門として
内外に知られるようになり、
多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を行っていました。

【中世以降】
東大寺は、近隣の興福寺と共に
治承4年12月28日(1181年1月15日)の
平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、
大仏殿を初めとする多くの堂塔を失いました。
この時、大勧進職に任命され、
大仏や諸堂の再興に当たったのが
当時61歳の僧・俊乗房重源(ちょうげん)でした。

重源の精力的な活動により、
文治元年(1185年)には
後白河法皇らの列席の下、大仏開眼法要が、
建久元年(1190年)には上棟式が行われました。
建久6年(1195年)には再建大仏殿が完成し、
源頼朝らの列席の下、落慶法要が営まれました。



その後、
戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、
三好・松永の戦いの兵火により、
大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失しました。
天正元年(1573年)9月、
東大寺を戦乱に巻き込むことと
乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出しています。

【江戸時代】
仮堂が建てられましたが
慶長15年(1610年)の暴風で倒壊し
大仏は露座のまま放置されることとなりました。
その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、
再建大仏殿は公慶(1648年⇒1705年)の尽力や、
江戸幕府将軍徳川綱吉や
母の桂昌院を初め多くの人々による
寄進が行われた結果、
宝永6年(1709年)に完成しました。
この3代目の大仏殿(現存)は、
高さと奥行きは天平時代とほぼ同じですが、
間口は天平創建時の11間から
およそ3分の2の7間に縮小されています。
また、講堂、食堂、東西の七重塔など
中世以降はついに再建されることはなく、
今は各建物跡に礎石や土壇のみが
残されているとのことです。

【伽藍の概要】
東大寺の境内は
平城京の外京の東端を区切る
東七坊大路(現国道169号)を西端とし、
西南部は興福寺の境内と接していました。

南大門を入って参道を進むと、
正面に中門(南中門)、
その先に大仏殿(正式には「金堂」)があります。
大仏殿前には東大寺創建当時に
造立された八角灯籠があります。
中門からは東西に回廊が伸び、
大仏殿の左右に達しています。
回廊は、現在は大仏殿の南側にしかありませんが、
当初は北側にも回廊があり、
回廊北面の中央には「北中門」がありました。

【法華堂(三月堂)】
東大寺法華堂(とうだいじほっけどう)は、
奈良県奈良市の東大寺にある
奈良時代(8世紀)建立の仏堂です。
一般に三月堂(さんがつどう)として知られています。
日本の国宝に指定されています。
東大寺に現存する数少ない
奈良時代建築の1つであり、
堂内に安置する10体の仏像も
奈良時代の作です。

<位置>
境内の東方、若草山麓にあります。
東大寺に残る数少ない
奈良時代建築の一つであり、
天平仏の宝庫として知られています。
創建当時は羂索堂(けんさくどう)と呼ばれ、
東大寺の前身寺院である
金鐘寺(こんしゅじ)の堂として
建てられたもので、
創建時期は天平12年(740年)から
天平20年(748年)頃と推定されています。
建物の北側(参道側から見て向かって左側)の、
仏像が安置されている
寄棟造の部分を正堂(しょうどう)、
南側の入母屋造部分を礼堂(らいどう)と呼ばれています。
正堂は奈良時代の建築、
礼堂は奈良時代にも存在しましたが、
現在あるものは
鎌倉時代の正治元年(1199年)頃
(異説もあります)に付加したものです。
堂内には本尊の
不空羂索観音
(ふくうけんさく/ふくうけんじゃくかんのん)立像、
梵天・帝釈天立像、金剛力士・
密迹力士(みっしゃくりきし)立像、
四天王立像の計9体の乾漆像
(麻布を漆で貼り固めた張り子状の像)と、
塑造の執金剛神
(しつこんごうしん/しゅこんごうしん)
立像を安置しています。
他に塑造の日光・月光(がっこう)菩薩立像、
吉祥天・弁財天立像などの諸仏が
安置されていましたが、
これらは2011年から
東大寺ミュージアムに移動しています。
なお諸仏の細かい製作年代や
当初の安置状況については諸説あります。

法華堂(三月堂)

<拝観時間>
午前8時30分~午後4時

<入堂・拝観料>
(大仏殿・法華堂・戒壇堂、千手堂、東大寺ミュージアム、
それぞれで入堂料がかかります。)
大人(大学生以上):600円(550円)
高校生:600円(500円)
中学生:600円(400円)
小学生:300円(200円)
()は団体料金(30名以上)。



【二月堂】
東大寺二月堂(とうだいじにがつどう )は、
奈良県奈良市の東大寺にある、
奈良時代(8世紀)創建の仏堂です。
現存する建物は1669年の再建で、
日本の国宝に指定されています。
奈良の早春の風物詩である
「お水取り」の行事が行われる
建物として有名です。
なお「お水取り」は正式には修二会といい、
8世紀から連綿と継続されている
宗教行事です。

東大寺 二月堂

二月堂は治承4年(1181年)、
永禄10年(1567年)の
2回の大火にも焼け残ったとされていますが、
寛文7年(1667年)、
お水取りの最中に失火で焼失し、
その2年後に再建されたのが
現在の建物となります。
本尊は大観音(おおがんのん)、
小観音(こがんのん)と呼ばれる
2体の十一面観音像で、
どちらも何人も見ることを許されない
絶対秘仏となります。
建物は2005年(平成17年)12月、
国宝に指定されました。

東大寺 二月堂 門

二月堂は修二会の
行事用の建物に特化した
特異な空間構成をもち、
17世紀の再建ではありますが、
修二会の作法や習俗など、
中世の雰囲気を色濃く残しています。

<位置>
二月堂は、東大寺金堂(大仏殿)の東方、
坂道を上り詰めた丘陵部に位置する、
十一面観音を本尊とする仏堂です。
すぐ南には三月堂の通称で
知られる法華堂があります。
これらの堂が所在する一画を
「上院」(じょういん)と称し、
大仏開眼以前から存在した、
東大寺の前身寺院があった場所です。

東大寺境内案内図

<火災と再建>
東大寺は治承4年(1180年)の
平重衡の兵火と、
永禄10年(1567年)の
三好・松永の兵乱とにより
創建時の建物の大部分を失っています。
二月堂はこれらの兵火では
類焼をまぬがれたましたが、
寛文7年(1667年)、
修二会の満行に近い2月13日に失火で焼失。
現存する二月堂はその直後の
寛文9年(1669年)、
江戸幕府の援助を得て、
従前の規模・形式を踏襲して
再建されました。

<創建>
修二会は大仏開眼供養と同年の
天平勝宝4年(752年)に
初めて行われたとされており、
二月堂の創建もこの時とされています。
ただし堂の創建については
同時代の史料に言及がなく、
確実なことは不明です。
二月堂や南隣の法華堂付近は、
大仏開眼以前から東大寺の前身にあたる
福寿寺や金鐘寺などの寺院が
存在したところであり、
二月堂前の仏餉屋(ぶっしょうのや)の
解体修理に伴う発掘調査によって、
前身寺院の遺構や
8世紀前半の瓦が出土しています。

<修二会の概要>
東大寺の修二会はきわめて複雑で
多彩な内容をもった行事です。
ごく大まかな概要は以下の通りです。

修二会は、旧暦の2月、
二七日(にしちにち、14日間の意)
にわたって行われる行事で、
二月堂本尊の十一面観音に対して
自らの過ちを懺悔し、
国家の安定繁栄と万民の幸福を祈願する
十一面悔過(けか)法要とのことです。
現在では新暦の3月1日から14日まで行われています。
法要は練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる、
特に選ばれた11名の僧が執り行います。

<六時の行法>
行事の中心となるのは内陣で行われる
「六時の行法」です。
これは1日のうちに日中、日没(にちもつ)、
初夜、半夜、後夜、晨朝(じんじょう)の
計6回(六時)の行法を行うということで、
日によって時間は前後しますが、
日中の時(じ)は午後1時前後、
初夜の時は午後7時前後、
晨朝の時は深夜1時前後に行われるとのことです。

<悔過作法>
行法は悔過作法、祈願作法、
呪禁(しゅごん)作法に分かれます。
このうち悔過作法には
散花行道(さんげぎょうどう)、
称名悔過(しょうみょうけか)、
宝号、五体投地などが含まれます。
宝号とは、練行衆が
「南無観世音菩薩」の名号を繰り返し
唱えるもので、作法の1つの山場となります。
六時のうち、初夜の時(じ)と
後夜の時では、
悔過作法の後に
祈願作法と呪禁作法が行われます。

<祈願作法>
祈願作法の中心は、
神名帳(じんみょうちょう)と
過去帳の奉読で、
それぞれ日本全国の神の名と、
古代以来の二月堂ゆかりの人々の名を
読み上げるものです。

<呪禁作法>
呪禁作法は密教的修法です。

<松明(たいまつ)の先導>
練行衆は、日中の時と日没の時を終えた後、
いったん参籠所へ引き上げ、
初夜の時の際にあらためて上堂します。
この際、上堂する練行衆一人ひとりを
松明(たいまつ)が先導します。
松明はそのあと、二月堂正面の舞台をめぐり、
観客に向けて火の粉を撒き散らします。
いわゆる「おたいまつ」です。
この「おたいまつ」は連日行われますが、
中でも「水取り」の修法直前の
3月12日の夜には、
籠松明(かごたいまつ)と呼ばれる
特大の松明11本が
二月堂の舞台から突き出され、
例年ですと周辺は見物客でにぎわいます。

東大寺 二月堂舞台

上述の毎日の作法以外にも
さまざまな行法が行事中に
織り込まれています。
中でも3月12日から14日まで行われる
達陀(だったん)の行法と、
12日深夜(正確には13日未明)に行われる
「水取り」の行法は著名です。
達陀は、異国風の帽子を被り
「八天」に扮した練行衆が、
次々に内陣正面に走り出て、
鈴や錫杖を鳴らしたり、
大刀を振り回したり、
ハゼ(もち米を炒ったもの)を
撒き散らすなどの所作(しょさ)をするもので、
クライマックスは
火天(かてん)役の練行衆が、
長さ3mもある大松明をかかえて跳びはね、
内陣を一周した後、
その松明を礼堂に向けて投げ倒し、
火の粉を撒き散らす松明加持です。
「だったん」の語源も
意味も不明であり、謎に包まれた行法となります。



<水取りの儀式>
修二会の代名詞となっている水取りは、
3月12日の後夜の時(じ)の途中に
行われるもので、
二月堂前にある若狭井から
香水(こうずい)を汲み上げ、
十一面観音に捧げる儀式です。
これは伝承では
若狭国の遠敷明神(おにゅうみょうじん)が
湧き出させた霊水であるとされています。

このように、修二会は
密教や神道の要素や春迎えの
民間習俗を取り入れた部分もあり、
きわめて複雑で謎の多い行事です。

東大寺二月堂舞台からの眺め

<二月堂の建屋と周辺>
建物の西側は急斜面になっており、
懸崖造りで立てられています。

東大寺二月堂斜面

東の山側には
遠敷神社(おにゅうじんじゃ)と
飯道神社(いいみちじんじゃ)があり、
西側の崖下には参籠所(さんろうしょ)、
仏餉屋(ぶっしょうのや)(ともに重要文化財)、
興成社(こうじょうしゃ)が建てられています。

東大寺二月堂 崖の下

また、お水取りを行う井戸(若狭井(わかさい))
のための閼伽井屋(重要文化財)があります。
二月堂の周辺は上院とも呼ばれています。

<二月堂拝観時間>
24時間参拝可能です。
但し夜間は本堂正面で
騒いだりしないでくださいとのことです。

<二月堂からのお願い>
<1>
二月堂本堂周辺(舞台も含む)は
三脚の使用はできません。
<2>
お百度を回っておられる信者さんに
カメラを向けたり、
巡礼の邪魔をしないよう、
ご協力のほどよろしくお願い致します、とのことです。

【拝観時間及び入堂料】

【拝観・開館時間】
<大仏殿・法華堂(三月堂)・戒壇堂>
4~10月⇒午前7時30分~午後5時30分
11月~3月⇒午前8時~午後5時
<東大寺ミュージアム>
4~10月⇒午前9時30分~午後5時30分
(最終入館午後5時)
11月~3月⇒午前9時30分~午後5時
(最終入館午後4時30分)
※大仏殿・法華堂・戒壇堂、東大寺ミュージアム、
それぞれで入堂料が発生します)

【入堂料(拝観料)】
個人 団体(30名以上)
大人(大学生以上)⇒600円(団体:550円)
高校生⇒600円(団体:500円)
中学生⇒600円(団体:400円)
小学生⇒300円(団体:200円)

<セット券(大仏殿・東大寺ミュージアム)>
大人(中学生以上):1000円
小学生:400円

中学校・高等学校の団体割引について

小学生の団体割引について

【駐車場】

東大寺に近い駐車場
★夢風ひろば
※最も早い時間の営業オープン時間でも午前9時なのでご注意を!!

【奈良公園の鹿さん】

所要時間:30分(駆け足)より数時間

東大寺大仏殿の戦いについて~松永久秀&三好義継VS三好三人衆&筒井順慶&池田勝正~

松永久秀~三好長慶に忠義を誓った人物~官僚であり武将として時代の中心で活躍するも信貴山城にて死す。

筒井順慶・松永久秀のライバルで、与力であり友人でもあった明智光秀に味方しなかった人物

運慶~日本彫刻史上最も有名な人物でその作風は力強く躍動的で写実的です。

正倉院~聖武天皇・光明皇后を中心とした天平時代の多数の文化財の一大宝庫で世界遺産に登録されています。

興福寺~藤原鎌足・不比等ゆかりの寺で世界遺産に登録されており阿修羅像が著名です。

春日大社~藤原氏の氏神を祀る全国の春日神社の総本社で世界遺産に登録されています。

手向山八幡宮~かつては東大寺の鎮守神、紅葉の名所で菅原道真も詠んでいます。

薬師寺~後の持統天皇のために天武天皇が藤原京に開基、その後現在地に移転、世界遺産登録されています。

氷室神社と氷室城跡(奈良市)~氷室を祀る古社の氷室神社は氷みくじが大人気で、戦国期は氷室城の伝承有り。

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法起寺~前身は岡本宮で境内が国の史跡で日本最古の三重塔があり、世界遺産に登録されている寺院です。

安倍文殊院~安倍一族の氏寺として大化元年に創建、日本三文殊に数えられています。

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飛鳥京跡~複数の都市遺跡であり大化の改新で中大兄皇子や中臣鎌足らが 蘇我入鹿を討ち果たした場所。

石舞台古墳~国内最大級の方墳で埋葬者は蘇我馬子だと有力視されています。

飛鳥寺と蘇我入鹿の首塚~飛鳥寺の開基は蘇我馬子で日本最古のお寺です。

高松塚古墳~築造年代は終末期古墳で飛鳥美人に代表される極彩色の壁画が有名です。

キトラ古墳~国の特別史跡で壁画は国宝となっており、天井には東アジア最古の天文図が描かれています。

亀石~亀ですが蛙や上下逆さま説もある明日香村観光のシンボル的な石造物です。

藤ノ木古墳~国の史跡、盗難にあわず大切に守られてきた円墳で被葬者は2人の男性です。