【朝護孫子寺】
朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)は、
奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)の
信貴山にある信貴山真言宗総本山の寺院です。
ご本尊は毘沙門天となります。
「信貴山寺」とも称し、
一般には「信貴山の毘沙門さん」として知られているそうです。
正式名称は、
信貴山真言宗 総本山 朝護孫子寺です。
初詣や「寅まつり」(2月下旬)は多くの参拝客でにぎわいます。
神仏習合の名残から、境内には鳥居も並んでいます。
公式サイトです⇓⇓
信貴山真言宗 総本山 朝護孫子寺
【歴史】
朝護孫子寺は、
大和国(現在の奈良県)と河内国(現在の大阪府南東部)の
境にそびえる生駒山地の南端に近い、
奈良県側の信貴山の山腹に位置しています。
創建の時期や経緯については
判然とはしていないそうです。
【醍醐天皇の病】
寺に伝わる国宝「信貴山縁起絵巻」は、
平安時代後期、12世紀の成立とされ、
日本の絵巻物の代表作とされているとのことです。
この絵巻は通常の社寺縁起絵とは異なっており、
朝護孫子寺の創建の経緯等については何も述べておらず、
信貴山で修行していた命蓮(みょうれん)という
聖(ひじり)の奇跡譚が中心主題となっているそうです。
絵巻の中巻では延喜の帝(醍醐天皇)の病を
命蓮が法力で治したという話が語られているそうです。
「信貴山縁起絵巻」の詞書とほぼ同様の説話が
「宇治拾遺物語」にあり、「今昔物語」にも
信貴山寺の草創に関する説話が収録されているそうです。
ちなみに聖の名は「宇治拾遺物語」には「もうれん」、
「今昔物語」には「明練」とあるそうです。
平安時代末期に成立した歴史書「扶桑略記」の
延長8年(930年)8月19日条には、
「河内国志貴山寺住」の「沙弥命蓮」が
醍醐天皇の病気平癒のため、
祈祷を行ったことが記されています。
なお当時、醍醐天皇の病気は相当進んでいたそうで、
1か月後の9月29日に死去しており、
この点は説話とは異なっています。
なお、信貴山は大和国(奈良県)と
河内国(大阪府)の境に位置し、
朝護孫子寺の住所は奈良県ですが、
「宇治拾遺物語」「扶桑略記」には
「河内の信貴(志貴)」と表現されています。
よって、
醍醐天皇の時代である平安時代中期の10世紀頃には、
信貴山に毘沙門天を祀る庵があり、
修行僧が住んでいたと見られています。
【聖徳太子との繋がり】
当寺の創建について、
聖徳太子を開基とする伝承もありますが、
これは太子が物部守屋討伐の戦勝祈願をした際に、
自ら四天王の像を刻んだという伝承に因んだ
後世の付託との意見があります。
【信貴山の名の由来】
伝承では、寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に
四天王の一である毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、
その加護によって物部氏に勝利したことから、
594年(推古2年)に毘沙門天を祀る寺院を創建し、
「信ずべき貴ぶべき山(信貴山)」と
名付けたとあります。
また寺の至る所に虎の張り子が置かれていますのは、
その逸話に由来しているとのことです。
その後、902年(延喜2年)に醍醐天皇が、
「朝廟安穏・守護国土・子孫長久」の祈願寺としたことから、
「朝護孫子寺」の勅号を賜りました。
【戦国時代】
戦国時代には木沢長政が
信貴山頂に信貴山城を築きました。
1577年(天正5年)に
同城の城主である松永久秀と
織田信長の間で信貴山攻防戦が行われて松永久秀は滅亡し、
寺も焼失してしまいまいしたが、
其の後は豊臣秀頼によって再建されています。
現在、山頂には同寺の「空鉢堂」があり、
本堂付近から参道で連絡しているそうです。
【聖徳太子の伝承について】
なお、公式サイトによりますと、
信貴山について以下の様に記されています。
今から1400余年前、
聖徳太子は、物部守屋を討伐するために
河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。
聖徳太子が戦勝の祈願をすると、
天空遥かに毘沙門天王が出現し、
必勝の秘法を授かったとのことです。
その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻であったそうです。
聖徳太子はその御加護で勝利し、
自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、
信ずべし貴ぶべき山「信貴山」と名付けたそうです。
以来、信貴山の毘沙門天王は
寅に縁のある神として信仰されているとのことです。
(引用元:公式サイトより)
【本堂】
江戸時代延享3年(1746年)再建。
1592年の豊臣秀吉または
1602年の豊臣秀頼による再建説が伝わっています。
本尊は秘仏で、
普段公開されている毘沙門天像は
「お前立ち」(前立て本尊)と呼ばれるものです。
本堂真下は、暗闇の中を進んで
心願成就を祈る「戒壇巡り」の場となっています。
<戒壇巡り>
100円
寛政5年(1793年)7月に再建されました。
【十三塔】
日本では、平安時代に十三仏信仰が興り、
それに伴う十三重塔の建立が盛んになったとのことです。
供養塔のひとつです。
【多宝塔】
江戸時代の元禄2年(1689年)建立です。
修復は明治15年(1882年)です。
祭壇に大日如来が祀られています。
坐像丈三尺、説に恵心僧都作とすることから、
古くは天台宗との関わりが見られるそうです。
【空鉢(くうはち)護法堂】
命蓮上人が竜王の教えを蒙り、
信貴山縁起絵巻(飛倉の巻)の如く、
空鉢を飛ばして倉を飛び返らせ、
驚き嘆く長者に慈悲の心を諭して
福徳を授けたという伝承に由来しているそうです。
「一願成就」の霊験あらたかな
守護神として信仰されているそうです。
山道は険しいですが、
途中に信貴城址と行者の篭堂、星祭り本尊があり、
空鉢護法堂(空鉢堂)からの眺めは
たいへん素晴らしいとのことです。
【霊宝館】
国宝『信貴山縁起絵巻』(複製)をはじめとする寺宝を展示。
<拝観料>
<個人>
大人・大学生・高校生⇒300円
中学生・小学生⇒200円
<団体・15名以上>
大人・大学生・高校生⇒200円
中学生・小学生⇒100円
【経蔵堂】
中央に回転できる経厨子があり、
中に仏教のあらゆる法門の経典を集めた
「一切経」を納めているそうです。
その経厨子は、
一回転させる毎に
「一切経」をすべて読誦したのと
同じ功徳があると言われているそうです。
【虚空蔵堂】
虚空蔵菩薩を安置しています。
虚空蔵菩薩は弘法大師・空海が
青年時代に修行したとされている
「虚空蔵求聞持法」の本尊で
宇宙全体に満ちている仏の無量無尽の知恵や
功徳を蔵する菩薩とのことです。
特に「入試合格」「学業成就」に
ご利益がある菩薩とのことです。
【鐘楼堂】
江戸時代の貞享2年(1687年)再建
建物は一丈四方に袴腰が付いています。
梵鐘銘に信貴四郎とあります。
【仁王門】
江戸時代の宝暦10年(1760年)再建
【猪上神社】
信貴山の山門である仁王門です。
宝暦10年(1760年)に大阪宝栄講が再建、
明治14年(1881年)に大修理、
大正11年(1922年)に、
成福院鈴木恵照師の代にこの場所に移転されたそうです。
【絵馬堂(納経所)】
江戸時代の安政年間に、
大阪堂島の木綿屋梅蔵が寄進したものとのことです。
現在は休憩所として利用されています。
建物の半分は正月に納経所として利用されるそうです。
【剱鎧護法堂】
今から約1000年前、
醍醐天皇が重い病になった時、
命蓮上人が勅命により毘沙門天王に
病気平癒の祈願をしたとのことです。
数日後、加持満願の日、
剱鎧護法の使者が天皇の枕元に出現し、
天皇の病は癒され
心安らかになったとの伝承があるそうです。
そこで、この地に剱鎧護法を
当病平癒の守り本尊として祀り、
日夜勤行したとのことです。
以来、無病息災、病気全快の霊験あらたかな神として
篤く信仰されているそうです。
【本坊】
江戸時代の安政年間に建立
桁行十一間、梁行三間。
大阪堂島の木綿屋梅蔵が寄進したそうです。
平成9年(1997年)に改修されました。
隣接して護摩堂があります。
建物入口には、張り子の寅が置かれています。
【開運橋】
昭和6年(1931年)12月竣工。
全長約106m、幅約4m、
トレッスル橋脚を持つ日本最古のカンチレバー橋。
国登録有形文化財。
【宝寿橋】
本坊から成福院へ行く手前にある橋です。
橋の下には池があり、
たくさんの金魚が泳ぎ、
夏にはホタルが放たれるとのことです。
【三宝荒神堂】
中尊に悪魔をこらしめる為にこわい顔をして、
人々を守る明王「不動明王」を安置。
右にすべての人々を救う
西方極楽浄土の仏様「阿弥陀如来」、
左に仏教の守護神かまどの神様
「三宝荒神」が祀られています。
殊に三宝荒神は、
火難水難除けの台所の神様
「三宝(さんぼう)さん」として
親しまれお祀りされているとのことです。
【飛倉館】
宝庫
【弁財天の滝】
滝行場として使われていた信貴山唯一の滝で、
傍らには不動明王が祀られています。
【開山堂】
江戸時代の享保17年(1722年)建立
【命蓮塚】
延喜の頃に信貴山を中興した高僧、
命蓮上人の墓と伝えられる塚です。
【奥の院】
聖徳太子が守屋討伐の時、
毘沙門天王が阪部大臣に化現して先鋒を振われ、
御尊像が汗をかかれていたとの伝承があるそうです。
従って、朝護孫子寺は、
聖徳太子開基の信貴山奥之院、毘沙門天出現最初の地とされ、
本尊は「汗かきの毘沙門天王」と呼ばれているとのことです。
また境内地より「焼き米」が出土する霊地とのことです。
【山内塔頭】
境内には3院の塔頭寺院があり、
いずれも宿坊を営んでいます。
【千手院】
信貴山の宿坊として親しまれている塔頭「千手院」。
銭亀堂、護摩の毘沙門天王、子安観音等が祀られています。
商売繁盛・家内安全の護摩の毘沙門さんとして親しまれ、
崇拝されているそうです。
【玉蔵院】
信貴山の宿坊として親しまれている塔頭「玉蔵院」。
浴油堂、玉蔵院融通堂、三重塔阿閦如来、
日本一大地蔵等が祀られています。
その他、約250人までの宿泊ができる
玉蔵院富貴閣や、茶室古厘庵があるそうです。
【成福院】
信貴山の宿坊として親しまれている塔頭「成福院」。
如意融通尊、鎮宅霊符神、寅大師、三福神堂等が祀られています。
融通殿にお祀りしている融通さまは
福徳・開運・金運・良縁等々すべてのことを叶えてくださるそうです。
【所在地】
〒636-0923 奈良県生駒郡平群町信貴山
<地図>
青印は奥の駐車場付近です。
駐車料金500円(乗用車/1日1回)
【電話】
0745-72-2277
【拝観時間】
午前9時~午後4時30分
【交通アクセス】
【電車、バス、タクシー】
【JR・近鉄】
「王寺」(奈良交通バス「王寺駅(北口)」)⇒
(「信貴山門」ゆき約22分)⇒「信貴大橋」⇒徒歩5分
【JR・近鉄】
王寺」(北口よりタクシー)⇒(4km 約13分)⇒朝護孫子寺
【近鉄】
「信貴山下」⇒(タクシー 約10分(バスもあり))⇒ 朝護孫子寺
「信貴山口」⇒ ケーブル「高安山」⇒
(近鉄バス「信貴山門」ゆき約10分)⇒「信貴山門」→徒歩約10分
【JR線】
JR「王寺」までの所要時間
●「大阪」から 大和路快速 約35分
●「奈良」から 大和路快速 約15分
●「京都」から「大阪」経由 新快速⇒大和路快速 約70分
●「京都」から「奈良」経由 快速⇒大和路快速 約70分
※新幹線、関空から来られる場合は、
それぞれ「大阪」「天王寺」経由が便利だそうです。
【近鉄線】
●近鉄「王寺(「新王寺」)」までの所要時間
・「大和八木」から
「田原本」「西田原本」経由で「新王寺」 約45分
※名古屋方面から近鉄で来られる場合は
「大和八木」経由が便利とのことです。
●近鉄「信貴山下」までの所要時間
・「大阪難波」から「生駒」経由 約45分
・「生駒」から 生駒線 約45分
※奈良方面から近鉄で来られる場合は
「生駒」経由が便利とのことです。
●近鉄「信貴山口」までの所要時間
・「大阪上本町」から「河内山本」経由 約35分
【車】
●国道25号線「三室」交差点より約10分
●阪奈道路より(信貴生駒スカイライン経由)
「信貴山門料金所」よりすぐ
●第二阪奈有料道路より「壱分」ランプより約30分
●西名阪自動車道より「香芝」または「法隆寺」ICより約30分
※正月三ヶ日等、交通規制が行なわれる場合があるとのことです。
公式サイトです⇓⇓⇓
信貴・生駒スカイライン
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