柳之御所遺跡・接待館遺跡・長者ヶ原廃寺跡・白鳥館遺跡~柳之御所遺跡・平泉遺跡群~安倍一族と藤原三代。

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【柳之御所遺跡】

柳之御所遺跡(やなぎのごしょいせき)は、平泉町に残る史跡です。
1988年以降の調査で、堀に囲まれた敷地に
大規模な建造物群跡や膨大な遺物群が発見されました。
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『吾妻鏡』に記録された3代秀衡の居館・政庁の
「平泉館」だった可能性が当初指摘されていましたが、
現在では初代清衡のときから使われていた可能性が高いとされています。
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なお、「柳之御所」という名称は、
奥州藤原氏の時代に由来するものではないそうです。
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<付属建物>
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<地図>

<交通アクセス>
東北自動車道平泉前沢ICから車で約10分
JR東北本線「平泉」駅から徒歩約10分

2012年、
一関市の骨寺村荘園遺跡、
奥州市の白鳥舘遺跡・長者ヶ原廃寺跡、
平泉町の達谷窟と共に暫定リストに再び記載されました。



【接待館(せったいだて)遺跡】

接待館遺跡(せったいだていせき)は、
岩手県奥州市衣川にある平安時代の遺跡。国の史跡に指定されています。
中尊寺北側、衣川の北岸に位置し、
12世紀後半の掘立柱建物跡42棟、
土坑跡、溝跡、堀跡、土塁跡、竪穴式住居跡、
大量のかわらけ等が出土しています。

接待館の名称は、ここを居館とした
二代当主である藤原基衡の妻が仏法への帰依が深く、
慈善事業として、関道を往来する旅人を接待したり、
施しを与えたので、接待館と呼ばれたと伝承されています。

この遺跡が平泉町の柳之御所遺跡に匹敵する
大きさの堀と土塁に囲まれた居館であり、
大量出土という点から堀の内側では
儀式・儀礼がさかんに行われていました。
このことから遺跡は奥州藤原氏の祖先である
安倍氏の政庁跡と推測されています。

また、接待館遺跡をはじめとした4遺跡から、
12世紀奥州藤原氏の時代の遺構が広範囲に見つかっており、
衣川の北側にも平泉の市街地が広がっていたことが明らかになりました。
このことから、奥州藤原氏の時代には、
3代目秀衡の母の居館で、
平泉府の迎賓館であったと推測されています。

以上のような発掘成果から、
源義経が自害した藤原基成の屋敷、
衣川館跡の可能性が指摘されています。
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【現状】
2010年に隣接する細田 (ほそだ)、
六日市場(むいかいちば)の両遺跡と共に、
「接待館遺跡」として
国の史跡「柳之御所・平泉遺跡群」に追加指定されました。
安倍氏の政庁跡とされる衣川柵(並木屋敷)と近いです。
<地図><並木屋敷(衣川柵)と近いです>



【白鳥舘遺跡】

白鳥舘遺跡(しろとりだていせき)は、
岩手県奥州市前沢にある遺跡で国の史跡に指定されています。
北上川に周囲を180度以上囲まれる天然の要害であり、
10世紀から16世紀まで北上川の要衝地として利用されてきました。
伝承によると平安時代末期には
豪族安倍頼時の八男・白鳥八郎則任が居城したとされ、
室町時代末期には白鳥氏が居城したと伝えられています。
後三年の役当時は清原真衡が館を置いていたとも伝わっています。
発掘調査の結果、12~13世紀初めには
手工業生産が行われていた船着き場「川湊」として
利用されていたことが確認され、
奥州藤原氏時代の重要な拠点として
都市平泉の機能の一部を担っていたことが明らかとなりました。
鎌倉時代の御家人層に受容された磁竈窯産盤が出土したことから、
13世紀頃には鎌倉御家人などの有力者が関与していたこともわかりました。
2005年7月に衣川の長者ヶ原廃寺跡とともに
国の史跡「柳之御所・平泉遺跡群」に追加指定されました。

【遺構】
遺跡には堀跡や郭、土塁などの中世の山城の遺構がよく残っています。
12~13世紀初めに手工業生産が行われていたとみられる
遺構や遺物が出土しており、
中世の船着き場「川湊」として利用されていたと確認されています。
鍛冶炉跡、平泉遺跡群では初となる
素焼きの陶器「かわらけ」を焼いたと推定される遺構、
4度建て替えられた掘立柱建物跡、道路の溝跡などが確認されています。
中尊寺金色堂の藤原秀衡の棺に納められていた
数珠玉に酷似する水晶製とみられる数珠玉(直径1.8センチ)、
中国産陶磁器や国産陶磁器、
かわらけなども数多く出土したことから
鉄や銅、かわらけ、石製品の製作、加工が行われていたと推測されます。

地図・白鳥館遺跡の史跡案内所



【長者ヶ原廃寺跡】

長者ヶ原廃寺跡(ちょうじゃがはらはいじあと)は、
岩手県奥州市衣川にある平安時代の寺院跡です。
【概要】
中尊寺から北に約1キロの距離に位置し、
藤原秀衡の御用商人金売吉次の屋敷跡と伝承されてきましたが、
昭和33年の発掘調査の結果、
一辺約100mの築地塀、本堂跡、西建物跡、南門跡が確認され、
高級な寺院様式の壮大な建造物群跡であることが確認されました。
当時の築地塀は格式の高い寺院や役所しか造ることは許されず、
造営するのに多くの労働力が必要とされたことや、
出土した土師器の墨書や年代などから、
奥州藤原氏の祖先の一流をなす安倍氏が建立したものと推定されました。
講堂や僧坊などは見つかっていないことから
僧を育成したり修行したりする寺ではなく、
仏教儀礼(法会)に特化した寺だったとされています。
建物は残っていませんが、発掘調査で焼けた土が多く見つかり、
礎石に熱を受けた跡があることから、
前九年の役で安部氏が源頼義・義家父子に
滅ぼされたと同時に焼失したと推定されています。

【源頼朝が探していた場所】
文治5年(1189)9月27日、
奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が鎌倉に帰る前、
時間を割いて衣河の安部氏ゆかりの地を見学した様子が、
『吾妻鏡』に記録されており、
「土塀の中には何も残っていない。秋草が生い茂っているばかりで、
どこに礎石があるのかも分からない」とあり、
頼朝の探し求めていたのが、この長者ヶ原廃寺跡だったとされています。
長者ヶ原廃寺跡の礎石は束稲山で採石されたことが調査で確認されています。

【長者ヶ原廃寺跡と浄土思想】
2005年に前沢に所在する白鳥舘遺跡とともに
国の史跡「柳之御所・平泉遺跡群」に追加指定されました。
伽藍配置などからも
奥州藤原氏の祖先の安倍氏が建立されたと考えられています。
技法は、本堂跡と南門跡は中心軸でそろえられており、
その延長線上に中尊寺の丘陵の最も標高が高い部分に到達しています。
本堂と南門に標高差1mあり、
南門が視界をさえぎらない工夫がされています。
東側には視界を遮ることなく束稲山を望むような設計です。
安倍氏滅亡後は奥州藤原氏の祖先崇拝、
あるいは浄土思想の対象として
長者ヶ原廃寺跡が生きていた遺跡と考えられています。
また、さほど遠くない場所に
安倍氏の政庁跡とされる衣川柵(並木屋敷)や接待館遺跡があります。

地図
航空写真を見ると、遺跡の形が四角形になっています。
平安京を模していたかもしれません。

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