【盛岡城(もりおかじょう)】
盛岡城(もりおかじょう)は、岩手県盛岡市(陸奥国岩手郡)にあった日本の城。
国の史跡に指定されています。
別名は不来方城(こずかたじょう)ですが、
厳密には盛岡城の前身であり両者は別の城郭です。
「盛岡城」は南部(盛岡)藩南部氏の居城です。
西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地、
現在の盛岡市中心部にあった花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城です。
本丸の北側に二の丸が配され、
本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ現在は朱塗りの橋が架かっていますが、
存城当時は廊下橋(屋根付橋の一種)が架けられていました。
さらにその北側に三の丸が配され、
本丸を囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪が配されていました。
本丸には天守台が築かれましたが、幕府への遠慮から天守は築かれず、
天守台に御三階櫓が建造され代用とされました。
後、1842年(天保13年)に12代利済により天守へと改称されました。
白い花崗岩で組まれた石垣は、
土塁の多い東北地方の城郭の中では異彩を放っています。
建造物は明治初頭に解体され、現存するものは少なく、
城内に移築された土蔵と、
市内の報恩禅寺(名須川町1-5)に移築されたとされる門が残っています。
なお、移築門については城門であった確証は得られていません。
また、清水寺に、いずれかの門か定かではないですが城門が、
木津屋本店奥土蔵(南大通3-20)、
岩手川(旧・浜藤酒造、鉈屋町10番)に土蔵が再移築され現存します。
また、徳清倉庫(仙北1-13-7)に二の丸にあった勘定奉行所の一部が移築されています。
ほか、日露戦争で戦死した南部家第42代当主、
南部利祥を表彰した騎馬像「南部中尉銅像」が1908年に建立されましたが、
太平洋戦争中の1944年に金属供出で持ち去られ、
現在まで台座しか残されていません。
(櫻山神社に胸像部の鋳型が、馬の頭の部分の鋳型が名須川町の報恩寺に現存する)
説明文⇓⇓
現在の盛岡城址は、近代公園の先駆者である長岡安平の設計により、
1906年に『岩手公園(現在は盛岡城跡公園)』として整備され、
当地で学生時代を過ごした宮沢賢治の詩碑や、石川啄木の
不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心
と刻まれた歌碑などが公園内にあります。
<地図・地下駐車場出入り口付近>
【歴史・沿革】
<近世以前>
平安時代後期にあっては、清原武則の甥橘頼為の本領として
『陸奥話記』に記された「逆志方」とは、不来方のことであるという説があります。
<安土桃山時代~江戸時代~明治維新>
1590年(天正18年)、
陸奥国北部を勢力下に置く南部氏は、
安土桃山時代に天下統一を果たした豊臣秀吉より、
当主の南部信直が5ヶ郡の所領を安堵されました。
(閉伊郡、岩手郡、鹿角郡、紫波郡、ならび糠部郡)
1600年(慶長5年)、
関ヶ原の戦いで利直は東軍に属したため徳川家康より所領を安堵されました。
築城と共に城下町の建設を進め、
中津川以北の湿地帯を埋め立てて市街地としました。
また、中津川には「上ノ橋」「中ノ橋」「下ノ橋」(盛岡三橋)が架橋されました。
現存する「上ノ橋」の擬宝珠は、国の重要美術品に認定されています。
そして盛岡藩の藩庁として明治維新を迎えました。
【南部氏】
陸奥の武家で本姓は源氏。本貫地は甲斐国南部郷で家祖は南部光行。
源義光の玄孫の光行は
甲斐国南部の河内地方にあたる巨摩郡南部牧
(現在の山梨県南巨摩郡南部町)に住んでいたことから南部氏と称しました
南部氏初代である光行は、
平安時代に活躍した清和源氏の一流である河内源氏 源義光や、
その孫で平安時代末期に活躍した黒源太清光、
その子である甲斐源氏・加賀美遠光の子孫です。
奥州南部氏の始祖、南部三郎光行は、
清和源氏義光流(甲斐源氏)の加賀美二郎遠光の三男とされ、
甲斐巨摩郡富士川西岸の南部郷(現・山梨県南巨摩郡南部町)を領し
南部三郎を名乗っていましたが、父の官途信濃守から信濃三郎とも称されました。
文治5年(1189年)秋の奥州平泉攻撃に、
加賀美遠光父子四人が頼朝の本陣に従軍、藤原泰衡軍との合戦に功を立て、
その功によって南部光行は陸奥国糠部五郡の土地を給され、
建久2年(1191年)の末 家臣数十人とともに入国したと、
家伝では伝えられていますが、
拝領を支証するものはなかったとのことでした。
南部氏は南北朝時代から戦国時代にかけて急速に勢力を伸ばし、
はじめは三戸(現在の青森県三戸郡三戸町)に居城を構えていましたが、
豊臣政権を後ろ盾として九戸政実を鎮圧、
九戸城を福岡城(岩手県二戸市) と改め移転しました。
南部宗家は三戸南部氏であり、南部光行の嫡子・実光の子孫です。
天正18年(1590年)、
南部氏第26代当主である南部信直は豊臣秀吉の「小田原征伐」に参陣します。
信直はそのまま奥州仕置の軍に従軍し
さらに前田利家らの仲介により豊臣秀吉から
閉伊郡、和賀郡、稗貫郡の支配も認められると、
本拠地である三戸が領地の北側に
大きく偏ることとなったため、本拠地を盛岡に移しました。
江戸時代を通じて三戸南部氏は盛岡藩として存続することとなります。
明治時代になると、盛岡藩主の南部氏
および八戸藩、七戸藩の2分家は華族となります。
そして現在は南部家の第46代です。
【櫻山神社】
創建は寛延2年(1749)。
盛岡藩第八代・南部利視により盛岡藩初代・信直の遺徳を偲び、
盛岡城内淡路丸に神殿を建立しその神霊を勧請して
「淡路丸大明神」と奉ったのに始まります。
盛岡藩第十一代・南部藩第36代藩主の利敬
文化9年(1812年)8月13日に「櫻山大明神」と改称。
その後、利敬は同15年(1818年)4月に南部家初代・光行を合祀しました。
盛岡城が明治政府に接収された後、
明治4年に御神体を岩手郡加賀野村妙泉寺山(現・盛岡市)に仮遷座し、
同10年盛岡・下北山の聖寿禅寺跡に新社殿を造営し再遷座しました。
明治14年に県社に列格。
明治23年に旧盛岡藩士族また旧盛岡藩領民より、
旧城地への遷座の機運が盛り上がり、
盛岡城旧三の丸・鳩森下曲輪跡に明治32年(1899年)神社敷地を造成、
今日にみられる本殿、拝殿、神門が建てられました。
大正元年(1912年)10月に盛岡藩第三代・南部藩第27代利直、
十一代・南部藩第36代藩主利敬の霊を合祀して
永く郷土守護の神と崇め奉りました。
計4柱の南部家の神霊を合祀して現在に至ります。
【ご祭神】
【宝大石・烏帽子岩】
江戸時代前期、盛岡城築城の際に姿を現しました。
高さ6.6m、周囲は20mあるとのことです。
元々この地には元八幡神社が鎮座しており、
その傍らには三角状の岩がありました。
その高さが二の丸の高さと同じだったので、
南部藩第27代藩主である利直公が掘り進めるように命じると、
やがて烏帽子に似た巨石が出現したとの事です。
利直公は、祖神様の神域での巨石出現は、
大いなる瑞兆であると慶び、「宝大石」として崇め、
南部藩のお守り岩として崇拝しました。
お城側から見た「宝大石」
2006年(平成18年) 、日本100名城(6番)に選定されました。
また東北3名城にも選定されています。
<鶴ヶ城ー会津若松>
<小峰城(白河城)-白河市>
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横田城跡~阿曽沼氏の足跡~遠野市