出雲大社~縁結びの聖地、古代日本の歴史が感じられる場所

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【出雲大社】

出雲大社(いずもおおやしろ、
正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ)は、
島根県出雲市大社町杵築東にある神社です。
祭神は大国主大神。

<出雲大社 本殿>
出雲大社 本殿

二拝四拍手一拝の作法で拝礼します。
明治維新に伴う近代社格制度下において
唯一「大社」を名乗る神社でした。

<御神座 正面>
御神座 正面

【名称】
古代より杵築大社
(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)
と呼ばれていました。
明治4年(1871年)に出雲大社と改称しました。
正式名称は出雲大社サイトには
「いづもおおやしろ」、
出雲大社東京分祠サイトには
「いずもおおやしろ」とあります。
一般的には「いづもたいしゃ」と読まれています。

古文書に見える社名は次のとおり。

天日隅宮(『日本書紀』)
杵築宮(『釈日本記』)
出雲宮(『八雲御抄』)
厳神之宮(『日本書紀』)
出雲大神宮(『日本書紀』)[8] 杵築大神宮(『和漢三才図会』)
所造天下大神宮(『出雲国風土記』)
大社杵築大神宮(『国花万葉記』)
杵築大社(『延喜式』)
出雲国大社(『享保集成総論』)
日本大社(真言宗正林寺蔵版木)
天日栖宮(『出雲国風土記』)
出雲石(石同)之曽宮(『古事記』)。

<出雲大社 御守所>
出雲大社 御守所

【歴史】
出雲大社は国譲りの事情のもとで
創建されたとなっています。
貞観9年(867)には
正二位に叙せられ熊野大社とは別に
出雲国一宮と称せられるようになりました。
中世には12郷7浦を領していましたが、
豊臣秀吉により減じられ5郷2浦となりました。
明治4年(1871年)に官幣大社に列格の後、
大正時代に勅祭社となりました。

<出雲大社 境内案内図>
出雲大社 境内案内図

【創建】
出雲大社の創建については、
日本神話などにその伝承が語られています。

大国主神は国譲りに応じる条件として
「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、
千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、
そこに隠れておりましょう」と言いました。
これに従い、
出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に
「天之御舎(あめのみあらか)」を造りました。
(「古事記」より)

<幸魂奇魂の像>
幸魂奇魂の像

高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴命に、
「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、
千尋もある縄を使い、柱を高く太く、
板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」
と言いました。
(「日本書紀」より)

<ムスビの御神(大國主大神)像>
ムスビの御神像

所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、
皇神らが集って宮を築きました。
(「出雲国風土記」出雲郡杵築郷)

神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を
高天原の宮の尺度をもって、
所造天下大神の宮として造れ」と言いました。
(「出雲国風土記」楯縫郡)



崇神天皇60年7月、
天皇が「武日照命
(「日本書紀」での名。
「古事記」では建比良鳥命
(天穂日命の子)とされています。)
が天から持って来た神宝が
出雲大社に納められているから、それを見たい」
と言って献上を命じ、
武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、
飯入根(いいいりね)が、
当時の当主で兄の出雲振根に
無断で出雲の神宝を献上してしまいました。
出雲振根は飯入根を謀殺しましたが、
朝廷に誅殺されています。
(「日本書紀」より)

垂仁天皇の皇子である
本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに
唖(おし)(現代ではおそらく聾唖者であろうとのこと。)
でした。
占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、
曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして
大神を拝ませると、本牟智和気は
話せるようになったとのことです。
奏上をうけた天皇は大変喜び、
菟上王を再び出雲に遣わして、
「神宮」を造らせたとあります。
(「古事記」)

斉明天皇5年(659年)、
出雲国造に命じて「神之宮」を修造させました。
(「日本書紀」)

以上のように、伝承の内容や大社の呼び名は様々あります。
共通して言えることは、
天津神(または天皇)の命によって、
国津神である大国主神の宮が建てられたということです。
そしてその創建が単なる在地の信仰によるものではなく、
古代における国家的な事業として
行われたものであることです。

また、出雲大社の社伝においては、
垂仁天皇の時が第1回、
斉明天皇の時が第2回の造営とされています。

<銅鳥居と拝殿>
銅鳥居と拝殿

【ご祭神の変化】
出雲国造新任時に朝廷で奏上する
出雲国造神賀詞では
「大穴持命(大国主大神)」
「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があります。
この儀式を行っていた
平安時代前期までの祭神は大国主神でした。

<勢溜(せいだまり)の鳥居>
勢溜の鳥居

やがて、神仏習合の影響下で
鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まりました。
鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねました。
鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、
出雲の国引き・国作りの神を
素戔嗚尊としていました。
なお、本来国引きは八束水臣津野命でした。
従って、中世のある時期から
17世紀まで祭神が素戔嗚尊でした。
14世紀、
「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。
八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。」
と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、
寛文6年(1666年)、
毛利綱広が寄進した
銅鳥居に刻まれた銘文には
「素戔嗚尊者雲陽大社神也」
と記されたとのことです。

<浄の池>
浄の池

さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で
大般若経転読を行い、社殿では読経もしたそうです。
また、江戸時代初期には
社僧が寺社奉行と
杵築大社(出雲大社)の運営管理に
関する交渉を実施していました。

<松の参道>
松の参道

ところが、杵築大社(出雲大社)内は
仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微していきました。
寛文7年(1667年)の遷宮に伴う大造営の時、
出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して
寺社奉行に認められました。
仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却されました。
これに併せて祭神は須佐之男命から、
「古事記」「日本書紀」などの記述に沿って
大国主大神に戻りました。



【ご祭神】
大国主大神
祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。
ただし「出雲国風土記」ではこの名ではなく
大穴持命または所造天下大神大穴持命となっています。

【神在月】
神在月(神無月)には、
全国から八百万の神々が集まり、
神議が行われるとされています。
(神在祭 旧暦10月11日⇒17日)。
けれども出雲へ行かず村や家に留まる
田の神・家の神的な性格を持つ
留守神(荒神等)も存在しているので、
全ての神が出雲に出向くわけではないそうです。

そのような神々が集まるという信仰から、
江戸時代以降は文学にも
出雲の縁結びの神様として現れるほどに、
全国的な信仰を集めるようになったのでした。

【祭神の別名】
◆大穴牟遅神(おおあなむちのかみ)
「古事記』での表記

◆杵築神(きづきのかみ)
「日本文徳天皇実録」での表記

◆国造神(くにつくらししかみ)
「大隅国風土記」での表記

◆大穴六道尊(おおあなむちのみこと)
「土佐国風土記」での表記

◆大国魂神(おおくにたまのかみ)
「日本総国風土記」での表記

◆所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)
◆大地主神(おおとこぬしのかみ)
◆大国魂神 「古語拾遺」での表記
◆大穴持命(おおあなもちのみこと)
「出雲国造神賀詞」
「出雲国風土記」
「伊予国風土記」での表記

◆宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)
◆廣矛魂神(ひろほこみたまのかみ)
◆大国玉神(おおくにたまのかみ)
「日本書紀」での表記

◆倭大物主櫛甕玉神(やまとおおものぬしくしかみたまのかみ)
◆国作之大神(くにつくらしのおおかみ)
◆国作坐志大穴持命(くにつくりまししおおむなちのみこと)
「出雲国造神賀詞」での名。

◆国堅大神(くにかためまししおおかみ)
◆国占神(くにしめたまいしかみ)
◆出雲大神(いずものおおかみ)
◆芦原志拳呼命 『播磨国風土記』での表記
◆大汝命(おおなむぢのみこと)
◆兵主神(ひょうずのかみ)
◆農耕祖神(たづくりのおやのかみ)
◆幽冥事知食大神(かくりごとしろしめすおおかみ)
◆縁結神(えんむすびのかみ)、
◆福神(ふくのかみ)、
◆天下地主神(あめのしたとこぬしのかみ)、
◆大国作神(おおくにつくらししかみ)
出雲や出雲大社での神名。

【祭祀】
創建以来、
天照大御神の子の天穂日命を祖とする
出雲国造家が祭祀を
担ってきたとされていますが、
本来は出雲国造家は
東出雲の熊野大社の社家でした。
現在の宮司は84代国造千家尊祐です。
宮司の正服の紋様は、
神社本庁の定める黒綾文輪なし
裏同色平絹ではなく、
黒綾にご神紋である
二重亀甲剣花角の文様を
練り込んだものであり他に類を見ないとのことです。
現在も、皇室の方といえども
本殿内までは入れないしきたりを
守り続けているとのことです。
約60年に一度行われている
本殿の建て替えに際して、
神体が仮殿に遷御された後に、
本殿の内部及び大屋根が公開されることがあるそうです。

<本殿の屋根>
出雲大社 本殿 屋根

【本殿】
玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に
厳重に守護されています。
本殿内北西には
御客座五神が祀られています。
(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、
宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)
大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、
正面である南側ではなく
西側を向いています。
これは本殿が古代の高床式住居と
ほぼ同じ構造になっているため、
高床式住居における入口と
最上席の配置と向きの関係から、
御神座は西側を向くことになるためと
考えられているとのことです。
天井には7つの雲の絵が描かれています。
現在の本殿は延享元年(1744年)
に建てられたもので、
高さは8丈(およそ24m)で、
これは神社としては破格の大きさであるそうです。



本居宣長が「玉勝間」に引いたところによりますと、
かつての本殿は現状の倍ほどもあり、
中古(平安時代)には16丈 (48m)、
さらに上古(神代の後、平安より前)には
32丈(およそ96m)であった、
という伝承があるとのことです。
同じ出典にある、
「金輪造営図」と併せて想定される姿は
大変不思議なもので、
空に向かって延びた何本もの柱の上に
社が建つというものになります。
上古については流石に神話と看做すとしても、
16丈あったとすると
東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈≒45m)
や平安京大極殿より大きかったということになるのです。

2000年(平成12年)、
境内からは勾玉などの他、
巨大な宇豆柱が発掘されました。
(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)
これは中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、
柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)
造営の本殿である可能性が高いと分析されています。
けれども、
発見されたものが古代の本殿ではなくとも、
16丈であったことの証明になる
可能性があると書かれた教科書や書籍もあるそうです。

<荒垣内摂社>
「荒垣」とは
本殿鎮座地の四囲にめぐらした石垣と塀で、
大社ではこの内側をいわゆる「境内」としています。

<本殿瑞垣内>
大神大后神社(御向社、みむかいのやしろ)⇒
式内名神大社(同社坐大神大后神社)。
大国主の正后・須勢理毘賣命を祀っています。

伊能知比賣神社(天前社、あまさきのやしろ)⇒
式内社(同社坐伊能知比賣神社)。
大国主が亡くなったときに蘇生を行った
蚶貝比賣命・蛤貝比賣命を祀っています。

神魂御子神社(筑紫社、つくしのやしろ)⇒
式内社(同社坐神魂御子神社)。
大国主の妻で宗像三女神の一柱、多紀理毘賣命を祀っています。

門神社(もんじんのやしろ)⇒
廻廊八足門内の両側にあって
本殿を守護する宇治神(東)・久多美神(西)を祀っています。

<本殿瑞垣外>
出雲神社(素鵞社、そがのやしろ)⇒
式内社。父(または祖先)の須佐之男命を祀るっています。
本殿の真後ろ、八雲山との間に唯一鎮座する社。
※稲佐の浜で持ち帰ったお砂をこの社で
奉納して、素鵞社の御砂を頂きます。

<素鵞社>
素鵞社

<素鵞社の背後にある磐座>
素鵞社の背後にある磐座

稲佐の浜~国譲り・国引きの舞台の浜。出雲大社へお参りの前に砂を持ち帰りましょう。

釜社(かまのやしろ)⇒
素戔嗚尊の子の宇迦之魂神を祀っています。

氏社(うじのやしろ)⇒
2つあり、出雲国造家祖神の天穂日命(北)と
17代の祖で出雲氏初代の宮向宿彌(南)を祀っています。
御神座は本殿のある東を向いて、
西を向いた主祭神に対面するようにしつらえてあります。

十九社(じゅうくしゃ)⇒
東西に2つあって八百万神(やおよろずのかみ)を祀っています。
神在祭の際、神々の宿舎となります。

<十九社>
西十九社

<荒垣外摂末社>
神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ)
⇒式内社。神産巣日神を祀っています。
(出雲市大社町杵築東182)

命主社 (いのちのぬしのやしろ)~真名井遺跡と樹齢1000年以上のムクノキが圧巻!!

阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ)⇒
式内社。子の阿遅鉏高日子根神を祀っています。
(出雲市大社町遥堪1473)

大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ)⇒
式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と
素戔嗚尊の孫の御年神を祀っています。
(出雲市大社町杵築東)

大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ)⇒
式内社。子の下照比賣命を祀っています。
(出雲市大社町修理免字向地920)

大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)⇒ 式内社。
天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに
使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を
主祭神とし、白兔神を配祀しています。
(出雲市大社町鷺浦102)

上宮(かみのみや)⇒
素戔嗚尊・八百萬神を祀っています。
神在祭の際、神々の会議所となります。
(出雲市大社町杵築北)

下宮(しものみや)⇒ 天照大御神を祀っています。
(出雲市大社町杵築北)

出雲井社(いずもいのやしろ)⇒
岐神(ふなどのかみ)を祀っています。
(出雲市大社町修理免)

因佐神社(いなさのかみのやしろ)⇒
建御雷神を祀っています。
(出雲市大社町杵築3008)

湊社(みなとのやしろ)⇒
櫛八玉神を祀っています。
(出雲市大社町中荒木)

大歳社(おおとしのやしろ)⇒
素戔嗚尊の子の大歳神を祀っています。
(出雲市大社町杵築北)

祓社(はらいのやしろ)⇒
祓戸四柱神を祀りっています。
参道大鳥居の東側にあり
参拝者が前もって身心を祓い清める社です。
(出雲市大社町杵築東195)

野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)⇒
参道大鳥居の西側、神苑相撲場の北西にあり
相撲の始祖野見宿禰命
(第13代出雲國造 襲髄命(かねすねのみこと))を祀っています。



【拝殿】
室町時代の永正16年(1519年)に
尼子経久が造営。
名工の坪井大隅守が華、青龍、松竹梅などで
豪華絢爛に仕上げ、高く評価されていました。
しかしながら
昭和28年(1953年)5月27日午前1時頃、
本殿が72年ぶりの正遷宮奉祝期間中に
鑽火殿(さんかでん)から出火し、
拝殿まで類焼し、姿は消えてしまいました。
原因は鑽火殿で餅をつき終わって
酒を飲んでいたことから、
残り火の不始末だったということです。
日本全国の崇敬者から寄付金1億円を集めて、
復興事業が行われ、昭和34年に完成しました。

【庁舎】
江戸時代の初期建築でしたが、
上記の火災で延焼し、
拝殿とともに姿は消えてしまいました。
再建工事は、1961年(昭和36年)11月に着工、
1963年(昭和38年)5月に竣工。

その後、コンクリートの亀裂など老朽化が進み、
安全上問題があるとして
建て替えになることが決まりました。

【神楽殿】
拝殿の西側、荒垣外に位置する神楽殿(かぐらでん)は
明治12年(1879年)の
出雲大社教創始の際に、
本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来しています。

<神楽殿と大注連縄>
神楽殿と大注連縄

【出雲大社注連縄】
正面破風下に張られた長さ13m、
周囲9m、重さ5tの大注連縄は
日本トップクラスです。
神楽殿では婚礼なども執り行われています。

【国旗掲揚台】
神楽殿南側には高さ47mの国旗掲揚台があり、
日本国内で最大の日章旗が掲げられています。
旗の大きさは畳75枚分、
重さは約50kgに達するとのことです。
通常は朝掲揚され夕方に奉降されますが、
悪天候時にはこれを行わない場合があるそうです。

<彰古館>
本殿の北西方にある宝物館。
1914年築。
木造2階建、銅板葺、建築面積165㎡
亀甲積基壇に建つ木造二階建、入母屋造銅板葺で、
正面中央に一間切妻造の玄関を設けてあります。
二階は桁行梁間とも側廻り一間を逓減し、
縁高欄を廻して安定した外観をつくっています。
良質のスギ材を用いています。

出雲大社 彰古館

<文庫(ふみぐら)>
文庫(ふみぐら)

【祭事】
1月
元旦 – 大饌祭(大御饌祭)
3日 – 福迎祭
5日 – 説教始祭
旧暦元旦 – 福神祭
旧暦1月2828日 – 杓子祭
2月17日 – 祈穀祭
4月1日 – 教祖祭
5月
14日
例祭(大祭礼) 勅使参向 この祭りにのみ神職は正服を着装し奉仕する
15日
例祭(大祭礼) 二之祭
16日
例祭(大祭礼) 三之祭
6月1日
凉殿祭(真菰神事)
8月
5日
爪剥祭
6~9日
出雲大社教大祭
14日
神幸祭(身逃神事)
旧暦10月
10日
神迎祭
11日⇒17日
神在祭(御忌祭)
11月23日
献穀祭・古伝新嘗祭
12月
15日
謝恩祭・勧農祭
20日
御煤払
23日
天長節祭
31日
大祓・除夜祭

出雲大社の最大の特徴として
日供祭が挙げられます。
日供祭は通常どの神社でも
朝と夕に神様に食事を
差し上げる祭事なのですが、
出雲大社では毎日宮司が
自らこれを行う建前です。
大概の神社では
当番で一人にて奉仕するとのことですが、
出雲大社ではあくまでも
大国主命のお祭りは天穂日命が行うという
神代よりの掟に従い、
宮司が7~8人の神職を従えて
奉仕するのが基本であるとのことです。
けれども実際には、
しばしば代理の神職により奉仕されるとのことです。

出雲大社には琴板(こといた)という楽があります。
杉板製で、長さ約79センチ、
幅約24センチの箱型を呈するもので、
裏側には約11センチの穴があいています。
弦は張ってなく、
約71センチの柳の枝の撥で打って演奏します。
的射祭、古伝新嘗祭、国造百番舞、
国造三番舞で奏でられます。
タマフリ、タマシズメの意味などがあるとのことです。
非常に原始的な古い楽器で重要です。

祭事では、出雲笛(いずもぶえ)を用います。
献饌時には「フルヘユラトフルヘ」と吹きますが、
これは「布瑠倍由良止布瑠倍」であり、
十種神宝に由来するとのことです。
出雲笛は竹製桜皮巻の横笛で、
出雲地方で作られ、その音色は実に神秘的であるとのことです。

【御朱印】
<1>
御本殿。御朱印受付所は拝殿の裏側とのことです。

<2>
神楽殿。
神楽殿に向かって左手に御朱印受付所があります。

<3>
出雲國神仏霊場巡りの御朱印。
島根・鳥取の20社寺で行っているそうです。

【御札・御守・御朱印の授与時間について】
通常時:午前6時~午後8時
⇓⇓⇓
変更後:午前7時~午後6時

【御札・御守・御朱印の授与時間】(2020年)
◆11/21・22⇒
午前6時30分~午後7時
◆11/23⇒午前6時30分~午後6時30分
◆11/24~11/30⇒
午前6時30分~午後8時

<4><5>
出雲大社北島國造館
御神殿と天神社の2種類の御朱印がいただけるとの事です。
授与は御守授与所、ならびに御祈祷受付所にて行っております。

※神在月限定御朱印
龍蛇様(龍蛇神)の限定御朱印をお授けするとのことです。
授与期間:令和2年11月1日~12月14日(主に旧暦十月の間)
(数に限りがあるそうです)

【出雲大社北島国造館】
<天神社(てんしんしゃ)>
ご祭神:少名毘古那神すくなびこなのかみ)
農業の神、医薬・温泉・酒造の守護神

天神社(てんしんしゃ)

<天神社と亀の尾の滝>
天神社(てんしんしゃ) 正面

<動画>

【所在地】
〒699-0701 島根県出雲市大社町杵築東195

【交通アクセス】
出雲空港⇒JR出雲市駅⇒
一畑バス(出雲大社・日御碕・宇竜行き)で25分程度。

出雲空港⇒出雲大社までの直通バスが出ております。

【駐車場】
<1>大駐車場:385台
※神楽殿の下

<2>駐車場:360台
※大駐車場の下。やや遠い。

<3>駐車場:20台
※大鳥居及び古代出雲歴史博物館の近く。

<4>かめやま広場駐車場(オススメ!)
※無料。古代出雲歴史博物館の近く。

熊野大社~火の発祥の神社として出雲國一之宮

旧大社駅と蒸気機関車D51 774~出雲

出雲阿国墓所・出雲阿国とは?

島根県立古代出雲歴史博物館~古代出雲を更に深く知ることができます。出雲大社の隣です。