臨川寺~天下の奇勝「寝覚めの床」があり、浦島太郎が住み着いた地との伝説があります。

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【臨川寺】

この寺は寝覚山臨川寺と呼ばれ、
臨済宗の妙心寺派の寺となっており、
境内からは寝覚の床が一望できます。
浦島太郎がたどりついた地との
説がある木曽寝覚の床に建つ、
寛永元年(1624年)に
再建されたとされる由緒あるお寺です。

臨川寺 山門

昭和46年、文久以来108年ぶりに
本堂(方丈)を全面改築しました。

臨川寺本堂、寝覚之床展望台、木曽七福神・弁財天、
宝物館(浦島太郎釣り竿、古民具他)、三徳稲荷堂、
浦島堂など。

【ご本尊】
宝冠釈迦如来像

【寺宝】
文殊菩薩像
弁財天像
明堂禅師臨川寺図
白隠禅師達磨絵

<寝覚之床展望台>
臨川寺より寝覚之床展望台

<弁才天堂>
正徳元年(1711年)尾張藩主四代徳川吉通が
母公の寿命長久を祈願して建てたとのことです。
文久の火災を免れ、境内はもとより
上松町で最も古い建物とされています。

臨川寺・弁才天堂

<浦島堂>
浦島太郎を祀るお堂として古くから改修を繰り返して
大切に保存されていきました。
近年では2014年に改修が行われています。
浦島堂 寝覚の床

(浦島堂の注意)
岩場は高低差があり歩きにくく
浦島堂まで登るのに時間を要します。
ご高齢の方や小さなお子様はご遠慮ください。



【臨川寺の歴史】
開基について詳細は不明ですが、
最古の記録としては
寛永元年(1624年)に
尾張藩祖徳川義直が木曽代官である 
山村良勝に命じて本堂・堂宇を再建させたと
記されています。

臨川寺

寝覚の床は古くから名勝として名高く、
当時の尾張藩主をはじめ、
参勤交代の大名小名も
臨川寺を小憩所として利用することが
多かったとのことです。
広い境内には壮麗な仏閣・堂宇が
建ち並んでいたとのことですが、
文久3年(1863年)に火災があり、
弁天堂を残して全焼したため、
正確な開基については不明のままとなっています。
また、明治13年(1880年)6月27日には
明治天皇が御小休みをされ、
今も記念碑が残っています。

【天下の奇勝「寝覚の床」と浦島太郎伝説】
海から遠く離れた木曽・上松の地にも
「浦島伝説」が残っています。
この地と浦島太郎を結びつけた
古い記録としては、
沢庵和尚が「木曾路紀行」で
「浦島がつり石」なる岩に
言及しているとのことです。

貝原益軒も「木曾路之記」において、
貞享2年(1685年)の旅中に
「浦島がつりせし寝覚の床」
を見聞したと記しています。
ただし浦島太郎がこの地に来た
事実については懐疑的であるとのことです。

浦島太郎が竜宮城から帰ってきたのち、
この寝覚の地で暮らした次第を
ありありと描いた伝説も作られています。

臨川寺 (上松町)建立の由来を語る
「寝覚浦嶋寺略縁起」によりますと、
浦島太郎は竜宮城から
玉手箱と弁財天像と
万宝神書をもらって帰り、
日本諸国を遍歴したのち、
木曽川の風景の美しい里に
たどり着きました。
ここであるいは釣りを楽しみ、
霊薬を売るなどして
長年暮らしていましたが、
あるとき里人に竜宮の話をするうち
玉手箱を開けてしまい、
齢300年の老人と化してしまいました。
天慶元年(938年)、
この地から姿を消したということです。

臨川寺 鳥居 弁才天堂

以上の「略縁起」の伝説は、
現存最古のものでも
宝暦6年(1756年)の
改版本ですが、
おおまかな伝説としては、
近世初頭以降に
語り継がれてきたものと
考えられています。

また巷説によりますと、
浦島太郎には、
今までの出来事がまるで「夢」
であったかのように思われ、
目が覚めたかのように思われたのでした。
このことから、この里を「寝覚め」、
岩が床のようであったことから「床」、
すなわち「寝覚の床」
と呼ぶようになったということです。

ある頃をさかいに、寝覚の床の浦島太郎と
後述する三返りの翁は
同一視されるようになっていました。
「略縁起」にもやはり、
浦島太郎が「見かへりの翁」
と呼ばれていたことが記されています。
こちらの場合は、
浦島太郎が人々に霊薬を売っていたゆえに
「見返り」の老人と呼ばれたと
釈明されているとのことです。

古浄瑠璃「浦嶋太郎」の舞台も
上松の宿場で、浦島太郎は、
海から遠い山中の木曾山中に住み、
木曾川で釣り糸を垂らして暮らしていたとしています。

<姿見の池>
玉手箱を開けて老人になってしまった
浦島太郎がその変わり果てた姿を写して
見たという言い伝えが残っています。
臨川寺 姿見の池

【三返りの翁】
民間伝承にでは、寝覚の里には
三返りの翁(みかえりのおきな)という、
長寿の薬を民に供していたされる
伝説上の人物が住んでいました。

室町後期の成立とされる謡曲「寝覚」が
この伝承に基づいています。
この作品のあらすじでは、
長寿の薬のことを耳にした
延喜当時の天皇が、
その風聞を調べてくるように
寝覚の里まで勅使を遣わすと、
翁が医王仏の権現であると名乗り、
その秘薬を献上します。
翁はすでに千年来、
寝覚の床に住んでいますが、
薬を使って3度若返ったので
「三返りの翁」の名称がついたのだと
説明されています。

本堂脇からもダイナミックな
「寝覚めの床」の風景を一望できます。
また、実際に巨石の上を歩いて
浦島堂へ行く事もでき、
地質学的にも珍しい
甌穴(ポットホール)などの
奇岩を見る事ができます。



【寝覚の床 散策コース】
<1>
滞在時間が短い場合(15分前後)
国道19号線沿い、
木曽人ねざめ亭や臨川寺、
蕎麦処寿伊舎からの眺望がおススメです

<2>
滞在時間がある場合(1時間以上)
3本の遊歩道で、寝覚の床の近くまで
降りることができます。
1)高低差があるが短めコース(臨川寺より・拝観料)
臨川寺・寝覚之床降り口

2)階段・高低差のある健脚向けコース(無料・木曽人ねざめ亭より)
3)長いが傾斜の少ないコース(無料・町営駐車場より)

寝覚の床 案内図

【臨川寺拝観料】
大人:200円
中高生:100円
小学生以下無料
団体割引有り

【開館時間】
<夏期>
午前8時~午後6時

<冬期>
午前8時~午後5時

【休館日】
無休

【所在地】
〒399-5601 長野県木曽郡上松町上松1704

【電話】
0264-52-2072

【駐車場】
門前のドライブイン等に
小型70台
大型20台
寝覚の床 駐車場

<散策など含む見学時間>
30分~2時間程度

<主にお寺と景観の見学時間>
15分~20分

【寝覚の床】

寝覚の床(ねざめのとこ)は、
長野県木曽郡上松町にある景勝地。
日本五大名峡の一つに数えられ、
国の名勝にも指定されています。
花崗岩の巨石が連なる独特の景観は、
木曽川の水流によって
花崗岩が侵食されてできた自然地形です。
大正12年(1923年)3月7日に
国の名勝に指定されました。
かつては急流でしたが、
上流に設けられた木曽ダム
(1968年に運用開始)などにより
水位が下がったために、
水底で侵食され続けていた花崗岩が
現在は水面上にあらわれています。
水の色はエメラルドグリーンです。
寝覚の床は木曽川沿いの一帯で、
南北約1kmのエリアです。
主な地籍は上松町大字小川。
県立公園特別地域の指定を受けています。

寝覚之床 中央西線

【歌】
中山道を訪れた歌人等によって
歌にも詠まれ、
長野県歌「信濃の国」の4番にも
「旅のやどりの寝覚の床」とうたわれています。

【公園として整備】
周囲は公園として整備されています。
1923年に国の名勝に指定され
県立公園として管理されてきましたが、
2020年に中央アルプス国定公園へ昇格しました。
公園付近は春に桜が咲き、
秋には対岸の山々が紅葉で色付きます。

寝覚の床・美術公園

【列車の車窓】
また川沿いの高所を走る
JR中央本線の列車の車窓からも一望できます。
中央西線の特急「しなの」では、
列車によっては車掌が
近くを通過する際にアナウンスをしたり、
乗客に景色を堪能してもらうために
列車の速度をやや落として運転することもあります。

<動画・寝覚之床と貨物列車>

【地質】
寝覚の床の地質は、
中生界の粗粒黒雲母花崗岩です。
露出岩盤には方状節理が見られます。
各段の高さと幅はそれぞれ数mで、
最上段は現河床からの比高が約20mです。
岩盤は約1.2万年前に露出しました。
平均侵食速度(下刻速度)は1.7m/kyrです。

寝覚之床 川と石

【寝覚の床・駐車場】
前述するドライブインなど
国道19号線沿いと、
少し南側の登坂車線下に、
無料の町営駐車場があります。



【交通アクセス】
(車)
中央道「伊那IC」・「中津川」ICから、それぞれ60分程度。

(公共交通機関)
<上松駅>
最寄駅はJR東海「上松」駅。
「倉本線」バスに乗車し5分程度。
徒歩ですと上松駅から南へ、
旧中山道を歩いて30分程度。
タクシーも利用できます。

<木曽福島駅>
上松駅から1つ北の駅。
「倉本線」バスに乗車し、15分程度。

赤沢自然休養林(日本三大美林)の森林鉄道に乗車しました。森林浴発祥の地です。

見付天神社(矢奈比売神社)~東海道・見附宿の守護で霊犬悉平太郎伝説、ゆるキャン△にも登場しています。

三留野 SL公園~かつての三留野宿にD51351が腕木式信号機と共に静態保存されています。

妻籠宿~中山道・木曽路

馬籠宿~中山道・木曽路

奈良井宿~中山道34番目の宿場で最も標高が高く日本最長の宿場町。C12静態保存(デフ付)あり。

徳音寺にある木曽(源)義仲公之墓と小枝御前・巴御前・樋口兼光・今井兼平の墓、義仲館と巴淵

興禅寺にある木曽義仲公之墓、木曾義康・木曽義昌父子、山村氏歴代の墓地もあります。

木曽義仲公館跡(旗挙八幡宮)~治承4年(1180年)千余騎を従え平家打倒の旗挙をした地です。

須原城~木曽氏が築城し須原宿として栄え馬籠宿から洗馬宿までの街道を整備しました。

木曽小丸山城~応永年間(1394年~1428年)に築かれた山城です。

上之段城~小丸山城に代わる居城として木曽義在によって築城されました。

木曽福島城~天文年間に木曽義康が築城、後に小笠原氏に攻め込まれました。

木曽福島関所~中山道にあった関所で東海道の今切関所や箱根関所と同等の扱いでした。

高遠城~国の史跡で日本100名城、春には珍しい品種の桜であるタカトオコヒガンが咲き誇ります。

二俣城~水運に恵まれた街道上の要衝で武田VS徳川の激しい攻防の舞台となり、徳川信康が切腹を遂げた城です。