【氣比神宮】
福井県中央部、敦賀市市街地の北東部に鎮座します。
敦賀は天然の良港を有するとともに、
北陸道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、
対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝です。
神宮はそのような立地であることから、
「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社でした。
「気比神宮」公式サイトからです⇓⇓⇓
気比神宮境内案内図
【所在地】
福井県敦賀市曙町11-68
【交通アクセス】
【鉄道】
JR西日本:北陸本線・小浜線 「敦賀」駅
徒歩:約15分
【バス】
福鉄バス:「気比神宮前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
<場所>
青印は「表参道駐車場」。
本殿を隔てて反対側には「東駐車場」があります。
【地域の歴史】
『古事記』『日本書紀』では
早い時期に神宮についての記事が見えます。
特に仲哀天皇(第14代)・神功皇后・応神天皇(第15代)との関連が深く、
古代史において重要な役割を担っているといえます。
また、中世には越前国の一宮に位置づけられており、
福井県から遠くは新潟県まで及ぶ諸所に多くの社領を有したとのことです。
そしてこのエリアは古代「越の国」と称されていた地域とほぼ重なります。
【越(高志)の国】
越国(こしのくに)は、
現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域の、
大化の改新以前の日本古代における呼称でした。
その後、7世紀に設けられた
行政区分としての「国」に引き継がれたそうです。
当時は高志国と書かれ、越国は8世紀以降の書き方であるそうです。
のちに令制国への移行に際して分割され、
越後国・越中国・能登国・加賀国・越前国となったそうです。
越州(えっしゅう)・三越(さんえつ)などの
地域名称の語源とされているそうです。
【縄文早期からの遺跡】
福井県や富山県からは縄文時代の遺跡も多く出土し、
しかも縄文時代早期からの遺跡も多いです。
更に、早くから他の地域との交易も行われ、
代表的なものが「黒曜石」や「ヒスイ」などです。
そしてその交易は青森から長崎までの日本海沿岸はもちろんの事、
大陸との交易も行われていた痕跡があるそうです。
また、各地域から日本列島へ人々が入ってきたと見られ、
弥生時代になり、更に渡来人たちがやってきます。
日本海は、国際交流や交易が想像以上に盛んな地域だったのです。
なお、日本海沿岸を「北のほっ海」と称していたと伝わっています。
【敦賀(つるが)の地名・発祥の地】
境内東側の裏参道に鎮座している
境内社の角鹿(つぬが)神社は、
「敦賀」の地名発祥地であると伝わっています。
そのほか祭事では多数の特殊神事が現在まで続き、
古図、古面等の有形文化財を伝えているのです。
また、「気比神宮」の社名ですが、
気比大神/気比神(『古事記』、『続日本紀』等)
笥飯大神/笥飯神(『日本書紀』)
気比神社(『日本後紀』、『延喜式』神名帳)
気比大神宮(『続日本後紀』等)
気比神宮(『日本文徳天皇実録』等)
以上のほか、
史料には「気比宮」「気比大明神」「気比社」「気比明神」
などの呼称も見えるそうです。
明治維新後の明治28年(1895年)には神宮号が宣下され、
それ以後は社名を「氣比神宮」としています。
なお、気比の松原の冠称「気比」も神宮の社名に由来するもので、
同地が古くは神宮の領地であったことに因むと見なされているとの事です。
【特殊神事一覧】
神宮で行われる特殊神事は以下の通りです。
【御誓祭(みちかいまつり】
3月6日(旧暦2月6日)
【御名易祭(みなかえまつり】
3月8日(旧暦2月8日)
本宮と伊佐々別神社(摂社)に海産物を主とする神饌が献じられます。
【御田植祭(おたうえさい)】
6月15日
田植え前に行われる神事で、平安時代から続き豊作祈願が行われます。
【牛腸祭(ごちょうさい)】
6月16日
9月の神幸祭で引く山車の順序を米くじで決める神事。
女人禁制で、厳重な制度のもと行われるそうです。
【常宮神社(敦賀市常宮)】
氣比神宮の元奥宮
神宮の対岸に位置し、
総参祭では神宮からの神輿が船で渡御します。
【総参祭(そうのまいりのまつり)】
7月22日(古くは旧暦6月中卯日)
仲哀天皇2年に、神功皇后が仲哀天皇の命により
敦賀から穴門国へ向かった故事に因む神事とされています。
前日夜には「寅神祭」として、
海上安全と船型神輿への神霊奉遷の神事が行われます。
そして当日には御座船「神宮丸」に船型神輿を載せ、
御幸浜(みゆきはま)から敦賀湾に出船して途中船中で祭典が行われ、
対岸にある旧摂社常宮神社への渡御が行われます。
この日の敦賀湾は禁漁日となり、
奉祀すれば3年の豊漁に恵まれるということから、
多数の漁業者も曳行を行っているそうです。
祭名「そうのまいり」は、
このように総じて参拝する様子を称したものとされています。
なおこの神事について、
神宮では神功皇后が百官を率いて出征した故事に因むとしていますが、
地元では気比神が眷属・氏子を率いて
常宮神を妻訪いする神事であると伝えているそうです。
【例祭】
宵宮祭(9月2日)
神幸祭(9月3日)
例大祭(9月4日)
後日祭(9月5日から月次祭までの間)
月次祭(9月15日)
【(けひ)の由来】
気比神宮の気比(けひ)は普段は読まない珍しい呼び名です。
「ケヒ(気比/笥飯)」の由来としては、
『古事記』では「御食津(みけつ)」から
「気比」に転訛したという説があります。
『古事記』の伝承に加え、
古い表記の「笥飯」は当て字ながら
「箱中の飯」を意味することから、
「ケヒ」とは「食(け)」の「霊(ひ)」、
食物神としての性格を表す名称とする説があります。
この地域は古代において朝廷に
水産物を中心とした御食料(穀類以外の副食物)を貢いだ
「御食国(みけつくに)」と呼ばれていたので
上記の説には納得できます。
ただし、これとは別に、
応神天皇と気比神との名の交換を意味する
「かへ(kafë)」から「けひ(këfi)」
に変化したとする説もあります。
【ご祭神】
祭神は次の7柱。
本殿(本宮)に主祭神と2柱、
本宮周囲の四社の宮(ししゃのみや)に
それぞれ1柱を祀っています。
【【本殿(本宮)】】
【伊奢沙別命(いざさわけのみこと)】
主祭神。「気比大神」または「御食津大神」とも称されます。
【仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)】
第14代天皇。
【神功皇后(じんぐうこうごう)】
仲哀天皇の皇后。
【【四社の宮】】
【東殿宮】
日本武尊(やまとたけるのみこと)
【総社宮】
応神天皇(おうじんてんのう)・第15代天皇。
【平殿宮】
玉姫命(たまひめのみこと、玉妃命)
『気比宮社記』では神功皇后の妹の虚空津比売命とする。
【西殿宮】
武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)
祭神を7柱とする記載は、
古くは『延喜式』神名帳に見えるそうです。
『気比宮社記』によりますと、
当初の祭神は伊奢沙別命1柱でしたが、
大宝2年(702年)の社殿造営にあたって
仲哀天皇・神功皇后を本宮に合祀、
周囲に日本武尊ほか4柱を配祀したと見えます。
【気比神宮特有の神・イザサワケとは?】
主祭神はイザサワケ(伊奢沙別/去来紗別)で、
氣比神宮特有の神です。
神名「イザサワケ」のうち「イザ」は誘い・促し、
「サ」は神稲、「ワケ」は男子の敬称の意という説があります。
そのほかの名称として、
史書では「笥飯」「気比」「御食津」と記されるほか、
『気比宮社記』によると、「保食神」とも記されるそうです。
これらは、いずれも祭神が
食物神としての性格を持つことを指す名称です。
敦賀が海産物朝貢地であったという説が導かれます。
このことから、神宮の祭神は上古より当地で祀られた在地神、
特に海人族によって祀られた海神であるとの見解が成されています。
一方、別の説としては、
『日本書紀』に新羅王子の天日槍の神宝として見える
「胆狭浅大刀(いささのたち)」との関連性の指摘があり、
イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説もあるそうです。
【応神天皇】(『集古十種』)
第15代天皇。
『古事記』『日本書紀』によれば
伊奢沙別命(神宮の主祭神)と名を交換したと見られます。
【イザサワケと、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇とのつながり】
深いつながりにあることが
『古事記』『日本書紀』によって確認できるそうです。
両書では、仲哀天皇が角鹿に行宮として
「笥飯宮」を営んだとあるほか、
天皇の紀伊国滞在中に熊襲の謀叛があり
角鹿にいた神功皇后を出発させたと見え、角鹿の地が登場します。
神功皇后は、仲哀天皇の突然死を経て
新羅に遠征(三韓征伐)、
帰途に太子(誉田別尊;応神天皇)を産みました。
そして、皇后と太子がヤマトへ戻る際に
謀叛があったが無事平定し、
太子は武内宿禰に連れられて
禊のため気比神に参詣したとのことです。
一連の出征の始まり・終わりを成したことから
古くは軍神として崇敬されたとの見解もあります。
『古事記』ではその後の経緯として、
武内宿禰に連れられた太子(応神天皇)は
イザサワケと名の交換を行ったとのことです。
説話によれば、太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、
夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げたとあります。
太子が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、
太子が言われたとおりにすると
浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚(イルカ)がありました。
これにより太子はイザサワケを
「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、
のちにその名が「気比大神」となったという説となります。
同様の説話は『日本書紀』でも
別伝として記されていますが、
一方では、
気比神(とその奉斎氏族)の王権への
服属儀礼を二重に表すと見る説が有力とされています。
また、以上のように当地が応神天皇系の勢力基盤であったことは、
越前から出た応神天皇五世孫の
継体天皇(第26代)とも関係するとの見解も存在しています。
イザサワケとともに祀られる仲哀天皇以下6柱に関しては、
7世紀後半に天皇霊が国家守護神として
各地に設置された動きと関連づける説もあります。
その中で、守護神として合祀された仲哀天皇は
敗者の霊として「祟り性」を備えていたために、
全国でも早期の神宮寺成立・神階昇叙に
つながったと指摘されているそうです。
【歴史】
【創建・伝承】
神功皇后と武内宿禰
(歌川国貞画)
社伝では、上古に主祭神の伊奢沙別命は
東北方の天筒山に霊跡を垂れ、
境内北東方にある土公の地に降臨したとあります。
そして『気比宮社記』によりますと、
仲哀天皇の時に神功皇后が
三韓征伐出兵にあたって気比神に祈願をすると、
海神を祀るように神託があり、
皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得ました。
そして仲哀天皇8年3月に
神功皇后と武内宿禰が安曇連に命じて気比神を祀らせたといい、
これが神宮の創建になる、とのことです。
またこの時、気比大神は玉姫命に神憑りして
三韓征伐の成功を再び神託したとも伝えられているそうです。
その後大宝2年(702年)に文武天皇の勅によって社殿を造営し、
本宮に仲哀天皇・神功皇后を合祀し、
東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に
各1柱を祀ったと言われているとの事です。
また、『古事記』『日本書紀』では
仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の時期に
記事が記されているのが確認できています。
けれどもその後は、
持統天皇6年(692年)まで神宮に関する記事は見えず、
7世紀中頃までは朝廷とのつながりは薄かったと見なされています。
そして7世紀後半頃に、
気比神の祭祀権が在地豪族から
朝廷の手に移ったと推測されているそうです。
【古代】
国史において気比神が再び現れるのは
持統天皇6年(692年)で、
その記事では越前の国司が
角鹿郡の浜で獲った白蛾を献上したため、
20戸の神封(神社に寄進された封戸)が
増封されたと記されています。
霊亀元年(715年)には
境内に神宮寺(気比神宮寺)が設けられたそうですが、
これは文献上で全国最古の神宮寺成立となるとのことです。
また『新抄格勅符抄』によれば、
天平3年(731年)に
従三位料として200戸の神封があり、
天平神護元年(765年)には
神封は244戸に及んだとも。
同記事では神階として
「従三位」と記されているのが確認できるそうですが、
これも全国諸神の神階記事の内で最古になるそうです。
その後、神階は寛平5年(893年)までに
正一位勲一等の極位に達したそうです。
このような神階昇叙として、
9世紀の東アジア情勢が背景にあり、
この時期に海神としての本来の性格が
朝廷から重要視されたとではないかと
推測されているそうです。
また、神宮は朝廷鎮護の重要な一角として
古くから朝廷との結びつきが強く、
朝廷からの奉幣が
宝亀元年(770年)(使者:中臣葛野連飯麻呂)、
承和6年(839年)(使者:大中臣朝臣礒守・大中臣朝臣薭守)、
仁寿2年(852年)、
貞観元年(859年)(使者:大中臣朝臣豊雄)
と、数回ありました。
また、承和6年(839年)には、
神宮の雑務は国司預かりから
神祇官直轄に移行され、
朝廷との関わりを一層強めていたそうです。
【中世から近世】
中世以降は越前国の一宮に位置づけられ、
「北陸道総鎮守」とも称されたとのことです。
古代に続いて中世も広大な社領を有しており、
その土地は越前を中心として
遠く越中・越後・佐渡にまで及んでいたそうです。
南北朝時代の戦乱では、
宮司の気比氏治は南朝方につき金ヶ崎城を築いて奮戦したが
(金ケ崎城の築城については諸説あり)
北朝方に敗れ一門は討ち死したそうです。
この敗死により神宮の社領も減らされてしまいましたが、
それでもなお24万石を所領したとも伝えられているそうです。
神宮は中世を通じて社殿焼失が多く、
史料には再建を示す記事が多く確認できています。
戦国時代には、社家は戦国大名朝倉氏の下に
組み込まれていました。
応仁の乱の後は、武家による侵略を受けながらも
朝倉氏滅亡までは所々の社領を有したそうですが、
そのため、織田信長の侵攻によって
社殿のほとんどを焼失、
朝倉氏滅亡とともに社領も没収されて
社勢は著しく衰退してしまいました。
江戸時代に入ると、慶長8年(1603年)に
結城秀康から100石が寄進され、
慶長9年(1604年)には
社殿造営がなされて再興が果たされました。
その後は、徳川家光から
秀忠の病気平癒祈願料として50石が寄進されたほか、
大野城主の松平但馬守などからの奉幣も受けてたことが判明しています。
けれども、かつての繁栄は見られませんでした。
【近代以降】
明治維新後、明治4年(1871年)に
近代社格制度において国幣大社に列しています。
明治28年(1895年)には官幣大社に昇格するとともに、
神宮号宣下により社名を現在の「氣比神宮」に改称しています。
昭和20年(1945年)には、
敦賀空襲により旧国宝の本殿ほか
社殿の多くを焼失してしまいました。
本殿は昭和25年(1950年)に再建され、
その他の社殿も再建・修復を経て現在に至っています。
また、戦後は神社本庁の別表神社に列しています。
【境内】
【大鳥居】
社殿はほとんどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、
現在の主要社殿は戦後の再建になります。
空襲を免れた大鳥居は
「日本三大鳥居」にも数えられる壮麗な朱塗鳥居であり、
国の重要文化財に指定されております。
【大鳥居の造営】
江戸時代前期の正保2年(1645年)の造営です。
木造朱塗の両部鳥居で、
高さ36尺(10.93メートル)・柱間24尺です。
扁額「氣比神宮」は有栖川宮威仁親王の染筆とのことです。
【拝殿(外拝殿)】
本殿に接続して内拝殿・外拝殿が建てられており、
昭和の大造営時の再建となります。
戦災で焼失した旧本殿は、
江戸時代初期の慶長19年(1614年)に
結城秀康によって再建されたもので、旧国宝に指定されていたということです。
【土公】
境内から天筒山の方角の敦賀北小学校校庭には
「土公(どこう)」と称される小丘があります。
「土公」とは陰陽道における神の名、であるそうです。
土公は神宮の聖地とされており、
周囲には卵形の石が八角形にめぐらされています。
社伝では、気比神はこの土公に降臨したとも、
更に土公の背後にある手筒山に降臨したとも伝えらえれています。
大宝2年(702年)の社殿造営以前は土公を神籬として
祭祀が行われたのではないかと見られているそうです。
また社殿造営後も土公は古殿地として護られたとも、
最澄・空海は当地で7日7夜の祈祷を行なったとも伝わっています。
この土公は聖別されているため、
調査が行われておらず詳細は明らかになってはいません。
社伝に見える説のほかに、
古墳とする説や経塚とする説があります。
【長命水】
大宝2年(702年)、
それまで伊奢沙別命(いざさわけのみこと)1柱を祀っていましたが、
文武天皇の勅命で、
仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・
・応神天皇・玉妃命・武内宿禰命の神々が合祀され、
御祭神は七柱とされました。
その際、神宮を修営していた折に、
突然として地下水が噴出したと伝えられてます。
合祀された神々は大変長生きをされたこともあり、
これは、祀られた神々の御神徳が宿る神水として信仰され、
1300年以上の長きに亘り
今に長命水の名称で親しまれているとのことです。
近年ではパワースポットとして、
境内名所の一つとなっているそうです。
※※実は「気比神宮」は急にふらっと訪れたので、
何の予備知識を持っていませんでした。
参拝した後、引かれるように近づいて撮影したのでした。
やはり「パワースポット」ですね。
【旗掲松(はたあげのまつ)】
中鳥居前に立つ松です。
社伝では、延元元年(1336年)に、
宮司の気比氏治が南朝方として挙兵するにあたり、
この松に気比神の神旗を掲げたということです。
現在もその旧根が残るとともに2代目の松が生育しています。
【神水苑】
境内東南側にある庭園です。
【摂社】
【角鹿神社】
地名「敦賀」の発祥地と伝える。
<祭神>都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)、合祀に松尾大神
<例祭>5月初卯日
社殿は流造銅板葺。嘉永4年(1851年)の改築によるもので、
神宮の境内社では唯一戦災を免れているとのことです。
【伊佐々別神社(いささわけじんじゃ)】
<祭神>御食津大神荒魂(みけつおおかみあらみたまのかみ)
漁撈の神であるとされ、海を向くために社殿は北面しています。
【天利劔神社(あめのとつるぎじんじゃ)】
<祭神>天利劔大神(あめのとつるぎのおおかみ)
【天伊弉奈姫神社(あめのいざなひめじんじゃ)】
<祭神>天比女若御子大神(あめひめわかみこのおおかみ)
社伝では天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の2社は
造化陰陽2柱を祀るとされています。
【天伊弉奈彦神社(あめのいざなひこじんじゃ)】
<祭神>天伊弉奈彦大神(あめのいざなひこのおおかみ)
社伝では天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の2社は
造化陰陽2柱を祀るとされています。
【九社の宮】
左最奥の伊佐々別・擬領の2社は北面し、
右列の御子神7社は東面すしています。
【擬領神社】
<祭神>建功狭日命(たけいさひのみこと)
「おおみやつこじんじゃ」。九社の宮の一社。
祭神は一説に大美屋都古神(おおみやつこのかみ)とも、
玉佐々良彦命(たまささらひこのみこと)とも。
建功狭日命は『先代旧事本紀』に角鹿国造祖と記されている人物。
【劔神社(つるぎじんじゃ)】
<祭神>姫大神尊(ひめのおおかみのみこと)
【金神社(かねのじんじゃ)】
<祭神>素盞嗚尊(すさのおのみこと)
【林神社(はやしのじんじゃ)】
<祭神>林山姫神(はやまひめのかみ)
【鏡神社(かがみのじんじゃ)】
<祭神>神功皇后奉献の宝鏡の神霊
【大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)】
<祭神>大己貴命、合祀に稲荷神・金刀比羅神
<例祭>10月10日
角鹿神社とともに裏参道に鎮座しています。
古くは「道後神社」と称し、神宮の北方鎮守社として
天筒山山麓の宮内村(現・敦賀市金ケ崎町)に鎮座したとされています。
【兒宮(児宮)(このみや)】
<祭神>伊弉冊尊
<例祭>11月15日
角鹿神社とともに裏参道に鎮座しています。
寛和2年(986年)に遷宮があったといい、それ以前からの鎮座と伝わります。
江戸時代以降は子育て・小児の守護神として信仰されています。
【猿田彦神社】
<祭神>猿田彦大神
祭神は気比神を案内する神であると伝わります。
【神明両宮】
<祭神>天照皇大神(内宮)、豊受大神(外宮)
所要時間:20~60分程度
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