武蔵御嶽神社に詣でた際、
畠山重忠公の像があったので、とても気になりゆかりの地へ行ってみました。
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武蔵御嶽神社を訪ねて・行き方、現地画像あり~青梅に行ってきました。
簡単に畠山重忠公について説明いたします。
【畠山重忠(はたけやましげただ)】
畠山重忠は長寛(ちょうかん)2年(1164年)に畠山重能(しげよし)の
次男として畠山(深谷市)で生まれたと伝わっています。
文治(ぶんじ)3年(1187年)には、 菅谷館に移り住みました。
重忠は、源頼朝の挙兵に対して当初は敵対していましたが、
その後臣従して治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)で活躍し、
宇治川の合戦、一の谷の合戦、奥州攻めなどで功績をあげ、
鎌倉幕府の有力御家人となりました。
(埼玉県県立嵐山史跡の博物館より)
文武両道の武将として常に先陣を務め、
武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で
「坂東武士の鑑」と称された程の人物であったと伝わっています。
(埼玉県県立嵐山史跡の博物館より)
武蔵国進出を目論んでいた北条時政にとっては、、
すなわち、武蔵国武士団の棟梁である重忠の勢力圏への進入であり、
重忠の存在自体が、時政にとっては次第に邪魔なものになっていきました。
そして頼朝の死後、幕府の実権を握った時政の謀略によって、
謀反の疑いをかけられ、
元久2年(げんきゅう)(1205年)、二俣川にて、
子どもと共に討たれ、42歳の生涯を閉じました。
場所は、埼玉県比企郡嵐山町にあり、現在は館跡の一角に、
埼玉県立嵐山史跡の博物館が建っています。
現在残されている城跡は、実は戦国時代のものであり、
山内上杉氏(やまのうちうえすぎ)と
扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎ)が争った
長享(ちょうきょう)年中の大乱(1487~1505年)の中で
再整備されたものであると伝わっています。
面積は約13万㎡(東京ドーム3個分)の広さがあり、
昭和48年(1973年)に国の史跡に指定されました。
更に平成20年(2008年)には、
「比企郡城館後 菅谷館跡(ひきぐんじょうかんあとぐん すがやかやたあと)」に
名称が変更されました。
(埼玉県県立嵐山史跡の博物館より)
菅谷館跡の構造ですが、
本郭(ほんくるわ)を取り囲むように、
ニノ郭、三ノ郭、西ノ郭、南郭が配置されています。
各郭は、深い空堀と高い土塁で囲まれており、
容易には攻め込まれない造りとなっています。
ニノ郭には、畠山重忠公の像があります。
これは、昭和4年に地元の有志のみなさんによって、
建てられました。
竹を芯にした「竹筋コンクリート」製です。
直垂(ひたたれ)をまとい、烏帽子(えぼし)をつけた、
鎌倉武士の正装の姿で、鎌倉の方角を向いて立っております。
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【鶴ヶ峰・二俣川古戦場(つるがみね・ふたまたがわこせんじょう)】
重忠は鎌倉に騒ぎがあると聞き、
6月19日に菅谷館を出発し、
同月22日の午後、鶴ヶ峰・二俣川で討伐軍に遭遇しました。
鶴ヶ峰・二俣川の古戦場は、
現在の所在地は、横浜市旭区にあり厚木街道沿いの
「鶴ヶ峰駅入り口」交差点の傍にあります。
重忠が率いていたのは二男の重秀以下130~40騎程度に過ぎませんでした。
嫡子の重保が殺された事、
自分に追討軍が差し向けられた事を二俣川で初めて知った重忠は、
館へ退くことはせず潔く戦う事が武士の本懐であるとして
大軍を迎え撃つ決断を下したそうです。
そこへかつての旧友安達景盛と主従七騎が先陣を切って突入し、
義時の大軍と少数の兵で応戦する重忠主従との激戦が
4時間余り繰り広げられたのち、
重忠は愛甲季隆の放った矢に討たれ、
首級を取られてしまいました(享年42)。
重忠の正室は足利義純に再嫁して
義純が畠山氏の名跡を継いだ事により、
平姓秩父氏の畠山氏は滅亡しました。
畠山重忠公産湯の井戸
(畠山重忠公史跡公園(埼玉県深谷市畠山))
さて、鶴ヶ峰にある重忠公の史跡は、
電車と徒歩で見て散策することができます。
ということで行ってきました!
相鉄線・鶴ヶ峰駅(北口)⇓⇓
改札を出て階段を降りて、そのまま、まっすぐ商店街のアーケードをくぐります⇓⇓
①首塚
道なりに歩き、小道を左に曲がり、坂を下るとです(徒歩7分程度)⇓
③鶴ヶ峰・二俣川古戦場跡&重忠公碑&さかさ矢竹(②から徒歩2分)
④古戦場矢畑・腰巻(③から徒歩8分)
放たれた矢が無数に地面にささり、
その光景がまるで矢を育てる畑のようであったことが由来です。
更に、重忠公に対してその矢が、ぐるりと突き刺さり、
あるいは北条勢が、取り囲んだ光景がまるで腰巻のようであったことから
いつしかこの名がついたそうです。
歩道が、人ひとりがやっと通れるくらいの狭さです。
その狭い歩道を自転車が多く通行していきます。
⑦すずり石水(⑥から徒歩3分)
下り坂です。
住宅街ですが、地形は谷戸でその底の部分です。
⑧駕籠塚(かごつか)(⑦から徒歩13分)
重忠公の内室「菊の前」の墓所と伝わるそうです。
重忠戦死の知らせを受けて籠に乗ったまま自害し、
籠(駕籠)ごと埋葬されたと伝わります。
昭和30年に今の場所へ移されました。
以前は後ろにある浄水場の中にあったそうです。
実は「すずり石水」から「駕籠塚」に向かう際、道に迷ってしまいました。
ナビも起動させていたのですが、
「すずり石水」は住宅街の谷底で、
「駕籠塚」は付近の眺めからも察することが出来るように山の上なので、
「すずり石水」は付近ではナビも狂いがちです。
従いまして、「駕籠塚」の近くにある
「鶴ヶ峯神社」を目指しながらいくとわかりやすいかもしれません。
「鶴ヶ峯神社」からやや南東方向徒歩30秒のところに「駕籠塚」はあります。
鶴ヶ峰駅までは徒歩14分程。
ひたすら坂を下がります。
目印です。
逆に駅から「駕籠塚」を目指す際には役立つと思います。
看板付近を右に曲がり、更に下がります。
狭いですが、交通量はあります。
更に下がると、下の交差点に出ます。
まっすぐに進みます。
横断歩道を渡るとやがて、この交差点に差し掛かります。
埼玉から鎌倉へと続く道なのです。
見覚えありませんか?
右方面を見ると・・・
重忠公が通ってきた道なのですね・・・。
①から⑧まで歩く時間だけで56分で、撮影なども合わせると、
1時間15分程でした。
トイレなどは、予め駅周辺で済ませると良いと思います。
ペットボトルなどを持参して
水分補給をしながら巡ると良いと思います。
コンクリートだらけで、
よく晴れた日だと、その照り返しで結構日に焼けますし、
水分も失われます。
ちなみに鶴ヶ峰駅周辺は、狭く、平らで広い場所がなく、
バスターミナルはやや離れたところにあります。
横浜市の住宅街の一角に、
800年以上も前の鎌倉時代初期の武将の足跡が
今も残されていることに感心しました。
神奈川県には埋もれた歴史の足跡が
実は多くあるのです。
埼玉県もまた、然りです。
また、時間が出来たら、散策してみたいと思います。
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