鞆の浦~万葉集にも登場する古代からの潮待ちの港です。

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【鞆の浦】

鞆の浦(とものうら)は、
広島県福山市鞆地区の沼隈半島南端にある
港湾およびその周辺海域です。

現在は鞆港の港周辺の市街を含めた範囲も
「鞆の浦」と呼ぶことも多いですが、
本来「鞆の浦」とは「鞆にある入り江」
という意味であるそうです。
従いまして鞆港を中心とした海域のこと、となります。

鞆の浦の港

<鞆の浦 観光MAP>
鞆の浦 観光MAP

なお、沿岸部と沖の島々一帯は
「鞆公園」として国の名勝および
国立公園に指定されております。

鞆公園

【鞆の浦について】

鞆の浦周辺は、大正14年(1925年)に
国の名勝「鞆公園」に指定されました。
また、昭和9年(1934年)3月16日に
国立公園として初の、瀬戸内海国立公園に指定されました。
そのため、国立公園指定当時の記念切手や
絵葉書には、鞆の風景が描かれているものがあります。
なお、鞆の浦に含まれる島には
仙酔島、つつじ島、皇后島、弁天島、玉津島、津軽島があります。

【鞆の浦の地形・海流】
瀬戸内海の海流は
満潮時に豊後水道や紀伊水道から
瀬戸内海に流れ込み、
瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかります。
逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして
東西に分かれて流れ出していきます。
鞆の浦を境にして潮の流れが逆転するのです。
「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした
沿岸航海が主流の時代に、
沼隈半島沖の瀬戸内海を横断するには
鞆の浦で潮流が変わるのを待たなければなりませんでした。
このような地理的条件から
大伴旅人などによる万葉集に詠まれるように、
古代より潮待ちの港として知られていました。
ちなみに万葉集には鞆の浦を詠んだ歌が八首残されています。
また、鞆は魏志倭人伝に書かれる
「投馬国」の推定地の一つともなっているとのことです。

江戸時代に入り、
航海技術が発達し
「地乗り」から「沖乗り」が主流になったことによって
鞆の浦で潮待ちをする必要性は
薄れていき、
備後地方の港湾拠点は尾道に大きく傾いていったのでした。

鞆の浦の港 常夜燈

【鞆の浦の町並み】
鞆の浦の港町である鞆には古い町並みが残っています。
1927年に日本二十五勝の海岸景勝地として、
「鞆の浦・屋島・若狭高浜」が選ばれています。
1992年には都市景観100選に、
2007年には美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれています。

鞆の浦の町並み1

鞆の浦の町並み2

江戸時代の港湾施設である
「常夜燈」、「雁木」、
「波止場」、「焚場」、「船番所」が
全て揃って残っているのは全国でも鞆港のみとなっています。
江戸時代中期と後期の町絵図に描かれた
街路もほぼすべて現存し、
当時の町絵図が現代の地図としても通用します。
そのような町は港町に限らず、
全国でも鞆の浦以外にはない、とのことです。

鞆の浦 港

2008年に公開された「崖の上のポニョ」で、
宮崎駿監督が構想を練った地として更に有名になりました。

2017年11月には
「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」の名称で
8.6ヘクタールの区域が
重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。

2018年5月には日本遺産に認定されました。



【鞆の浦の観光】

【医王寺】
鞆の浦の西側、
後山の中腹にある「医王寺」は、真言宗の歴史ある古寺。

境内からさらに高台へ583段もの階段を登ると「太子殿」があり、
そこから眺める鞆湾の全景は素晴らしく、
天候がよければ窓からは正に
絵画の様な綺麗な風景が見られるそうです。
お時間に余裕があって、健脚の方は是非どうぞ。

【福禅寺対潮楼(ふくぜんじたいちょうろう)】
渡船場のすぐ西側にある石垣の上にあります。
創建は平安時代の天歴年間(947〜957年)に、
空也上人により、
「観音堂」(天台宗)として
建立されたと伝えられています。

福禅寺対潮楼

その後、寛永15年(1638年)に、
後陽成天皇の第三皇子によって、
真言宗大覚寺の末寺に指定されました。
その際に、
寺号が「観音堂」から「福禅寺」に改められ、
現在に至っています。

「対潮楼」は、元禄7年(1694年)に、
憲意上人によって本堂が改築された際に、
新しく建てられた客殿です。
朝鮮通信使三役の迎賓館として
使われてきました。
正徳元年(1711年)、
従事官・李邦彦は、
そこからの眺望を「日東第一形勝」と賞賛しました。
更に延享5年(1748年)には、
正使・洪啓禧が、客殿を「対潮楼」と命名し、
書を残しています。

眺望「日東第一形勝」

<住所>
広島県福山市鞆町鞆2

<営業時間>
午前8時~午後5時

<料金>
大人:200円 
中高生:150円 
小学生:100円

お問い合わせ
TEL:084-982-2705

【鞆城跡】
鞆城(ともじょう)は、
備後国鞆(現在の広島県福山市鞆町後地)にあった
日本の城です。
福山市指定史跡に指定されています。
鞆城の前身となる、鞆要害と称されるものが
天文22年(1553年)頃に毛利元就の命により
備後地方の豪族である渡辺氏によって築かれています。
江戸時代に入ると福島正則により
鞆要害の築城が開始され、
鞆城と呼ばれるようになりました。
鞆城は丘陵部の本丸を中心に
二の丸、三の丸が囲み、その城域は、
南は鞆港、東は福禅寺、
北は沼名前神社の参道まで達する
大規模なものであったようです。
この時、3層3階の天守も建てられたといわれています。
が、大きな築城は徳川家康の嫌疑がかかり廃城とされ、
福島氏の移封後は、
西国鎮衛の役目で
備後福山に配された水野勝成により
福山藩が誕生し、鞆城跡には鞆奉行所が置かれたのでした。

鞆城跡

鞆城跡(二の丸?)

<鞆城跡からの圓福寺方面の眺め>
鞆城跡からの圓福寺方面の眺め

【圓福寺】
始まりは室町時代とのことです。
当時の圓福寺は「釈迦堂」といって、
現在の沼名前神社の南、小松寺の東に位置していたそうです。

圓福寺

圓福寺と号したのは、1610年頃、
住職の快音によって大可島城の跡地に移転した後のことです。
美しい瀬戸内の島々や四国の讃岐山脈が眺望できる景観を有し、
江戸時代には朝鮮通信使が来日した際の上官の常宿とされました。

圓福寺からの眺め

「山号扁額」は正徳元年(1711年)の
朝鮮通信使の写字官・花菴が大書した
圓福寺の山号を木片扁額にしたものです。
幕末のいろは丸沈没事件の談判では
紀州藩の宿舎として使用されました。

<松尾芭蕉の句碑>
松尾芭蕉の句碑

【大可島城跡】
大可島は慶長5年(1600年)頃に
鞆城が築かれたときに陸続きとなるまでは
独立した島でした。
紀伊水道と豊後水道からの潮流が一目で判る
当地は海上交通の要所とされ、
南北朝時代に大可島城が築城されました。
康永元年(1342年)、
城主の桑原重信一族が足利氏に敗北した後は
村上水軍の手に渡り、
戦国時代には
毛利元就の水軍の軍事拠点になりました。

大可島城跡

<桑原一族の墓所>
桑原一族の墓



【常夜燈】
鞆の浦のシンボルである「常夜燈」は、
映画やドラマにもたびたび登場する定番の観光スポットです。
近くまでいくとそれなりの大きさです。
鞆の浦 常夜燈

船の出入りを誘導する灯台として、
古くは「燈籠塔(とうろどう)」と呼ばれ親しまれてきました。
夜にはほんのりと明かりが灯り、
情緒ある夜の港町となります。

鞆の浦 常夜燈 夕方(観光案内より)

【桝屋清右衛門宅】
<住所>
広島県福山市 鞆町 鞆422番地
「桝屋清右衛門宅」は、
幕末に起こった「いろは丸事件」のときに
坂本龍馬らが滞在していた場所です。
幕府から命を狙われていた坂本龍馬は、
偽名をつかって屋根裏部屋に潜んでいたと伝わっています。

当時の坂本龍馬の「隠れ部屋」が、
そのままに公開されています。
桝屋清右衛門宅

【いろは丸展示館】
<住所>
広島県福山市鞆町鞆843−1
「いろは丸展示館」は、
江戸幕末に起きた「いろは丸事件」を紹介している資料館。

江戸時代末期、瀬戸内海で海運業を営んでいた
坂本龍馬らが乗った「いろは丸」が、
紀州藩の軍艦と衝突し沈没してしまいました。
事故後、坂本龍馬らは鞆の浦にて談判を行い、
のちに紀州藩より巨額の賠償金を得たと伝えられています。

館内では原寸70%の大パノラマで再現された
「いろは丸」を展示されています。
いまなお瀬戸内海に沈む「いろは丸」から
引き上げられた遺品を紹介しています。

いろは丸展示館付近

【御舟宿いろは】
いろは丸事件談判のため
坂本龍馬が利用した町家を
宿と食事処としてリフォームした施設です。
御舟宿いろは

【鞆の津の商家】
<住所>
広島県福山市鞆町鞆606
歴史情緒あふれる建物が残っている鞆の浦。

そのひとつである「鞆の津の商家」は、
江戸時代の古い商家の間取りがのこる母屋と、
明治期に増築された土蔵からなる建物です。
鞆の裏の典型的な町屋のつくりがみられるものとして、
福山市の重要文化財に指定されています。
公開は土・日・祝日のみとなります。

【太田家住宅】
<住所>
広島県福山市鞆町鞆842
鞆の浦にある旧家の代表格である「太田家住宅」。
江戸時代からこの地で作られてきた
薬用酒の「保命酒」の蔵元だった建物です。

本邸と通りを挟んだ向かいにある別邸からなり、
この地一帯が国の重要文化財に指定されています。

太田家住宅

太田家住宅 説明板

【岡本家長屋門】
「保命酒」のお店である岡本亀太郎本店。
その入り口にはかつて福山城にあった長屋門を移築しています。
市の重要文化財です。
岡本家長屋門

【仙酔島】

仙酔島~鞆の浦から船で5分の美しい宝の島・弁天堂のある弁天島も。

【ささやき橋】
<住所>
広島県福山市鞆町後地1199
鞆の浦のは古寺が多くあります。
そのなかでも最も古い「静観寺」のすぐ近くに、
とても小さな橋があります。
その名は「ささやき橋」。

鞆の浦 ささやき橋

このほんの1~2歩ほどで渡れてしまうこの橋には、
悲しい恋物語があります。
橋のたもとで悲しい恋人ふたりの
「ささやき声」が聞こえるという伝説があるとのことです。



<ささやき橋の伝説>
第15代応神天皇の頃の昔の事です。
百済より王仁博士が来日しました。
一行を乗せた船が鞆の浦に到着しました。
朝廷はこの賓客をもてなすため、
接待官として武内臣和多利、
官妓として江の浦を鞆の浦に派遣しました。
ところが、この二人は仕事で何度も会ううちに
やがて恋に落ちてしまったのでした。
橋のたもとで逢瀬を重ねる二人の仲は
とうとう上官の知るところとなったのでした。
密会を止めるように忠告されましたが、
止めることが出来なかった程、
二人の仲は深かったのでした。
こうして二人は罪を問われ、
お互いが抱き合えないように
後ろ手に縄で縛られると、
そのまま海に沈められてしまったというのです。

時が少し流れた頃、
武内臣和多利と江の浦が
密会していたという橋のたもとで、
夜ごと二人がささやきあう声が聞こえるという
噂が立ったのでした。
やがてその橋はいつしか「ささやき橋」と
呼ばれるようになったということです。

(引用元:日本伝承大艦より)

【山中鹿之助の首塚】
<住所>
広島県福山市鞆町後地1203
「ささやき橋」の直ぐ近くにあります。
天正6年(1578年)7月3日、
尼子勝久、氏久兄弟は切腹し、
山中鹿之助は囚われの身になりました。
7月17日の護送中、
高梁川と成羽川の合流点にある
「阿井の渡し」で殺害されてしまいました。
備中松山城に在陣していた毛利輝元は、
そこで首実検を行ったとの事です。
山中鹿之助の首は備中松山城から鞆城へ送られ、
当時の将軍であった足利義昭も首実検したと
伝えられています。
其の後、山中鹿之助の首は、
この首塚の近くに埋葬されたと伝えられており、
現在でも静観寺では毎年7月17日に
「首塚祭」の供養が行なわれています。
山中鹿之助の首塚

海蔵寺・安芸の古刹~山中鹿介次女の盛江,北条氏直,東城浅野家,江戸幕府と長州藩の談判の場所にもなりました。

【交通アクセス】
JR山陽新幹線および山陽本線・福塩線 福山駅南口から
鞆鉄バス(5番のりば)より。
「鞆の浦」行きか「鞆港」行きのどちらかに乗車します。
「鞆の浦」行きなら終点で下車。
「鞆港」行きなら、終点、
「鞆港」か一つ前の「鞆の浦」で下車します。
料金(大人):550円(2020年現在)
時間:30分程度

<廃線>
昭和29年(1954年)までは、
鞆鉄道線が福山駅から発着していましたが
昭和29年に廃止されました。
現在の「県道福山鞆線」がほぼその軌道跡とのことです。

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