【小谷城】
浅井家発祥の地です。
小谷城(おだにじょう)は、
滋賀県長浜市湖北町伊部(旧・近江国浅井郡)にあった
戦国時代の日本の城(山城)。
城跡は国の史跡に指定されています。
【概要】
日本五大山城の一つに数えられます。
標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、
浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られる城です。
戦国大名浅井氏の居城であり、
堅固な山城として知られていましたが、
元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城しました。
その後、北近江の拠点は長浜城に移されたために廃城となりました。
現在は土塁・曲輪などのほか、
先駆的に取り入れられた石垣なども遺構として残っています。
国の史跡に指定されています。
昭和12年(1937年)4月17日、国の史跡に指定されました。
また、日本100名城にも選定されています。
<日本100名城スタンプ設置場所>
小谷城戦国歴史資料館 休館日(火曜日)は長浜市役所湖北支所
<小谷城戦国歴史資料館>
開館時間:午前9時30分~午後5時(午後4時30分までに入館)
休館日:毎週火曜日
毎年12月28日~1月4日
入館料:200円
中学生以下は無料
<交通アクセス>
<電車>
JR西日本北陸本線「河毛」駅
<車>
北陸自動車道長浜IC⇒国道365号
無料駐車スペース有
<地図>
<築城>
大永3年(1523年)ー大永4年(1524年)築城説が有力だそうです。
歴代三代城主・浅井家はこちらをどうぞ⇓⇓⇓
小谷城~浅井家三代~浅井亮政・浅井久政・浅井長政
【城郭】
小谷山一帯の尾根筋や谷筋を
そのまま活用した南北に長い山城で、
築城当時は現在の本丸跡より
さらに北に位置する大嶽城付近に
本丸があったと考えられています。
久政、長政によって代々拡張が重ねられ
現在の城郭になりました。
落城後長浜城の建築資材とするため
小谷城は解体されてしまいましたが、
山王丸付近に現存する大石垣をみる限り当時としては
先進的で大規模な城であったと推察されています。
【主郭部】
城は多くの郭によって構成されており、
本丸とその奥に続く中丸との間には
深さ5〜10メートルほどの堀切があり
主として南北2つの部分に分けることができます。
これらの郭を守る形で武家屋敷跡が点在し、
清水谷などの要所には重臣の屋敷が配置されていました。
【御茶屋敷曲輪】
御茶屋敷曲輪は番所跡の上にある曲輪で、
主郭部の最先端にあります。
曲輪は一郭で中央に低い土塁があり、
名称は「御茶屋敷」と伝承されていますが、
軍事施設になっています。
【御馬屋敷曲輪】
御馬屋敷曲輪は本丸を防備するために築かれ、
三方を高い土塁で囲まれています。
また御馬屋敷曲輪の清水谷の斜面側には
いくつかの竪堀が見受けられます。
またこの近くには馬洗池跡があり、
南北9m×東西6.6mの石組みの池で
中央に仕切りがあります。
また黒金門跡の手前に首据石があり、
今井秀信を神照寺で殺害し首を
ここにさらしたとの伝承があります。
【本丸・大堀切】
<彦根城の西の丸三重櫓>
本丸曲輪は江戸時代中期の小谷城古絵図には
「鐘丸共」と記載されているので、
鐘丸として機能していたと思われています。
規模は南北40m×東西25m規模があり、
上下二段から成り立っています。
また東西の裾には土塁があり、
本丸下の千畳敷曲輪方向には石垣が築かれています。
小谷城の天守が長浜城に、
そして彦根城の西の丸三重櫓として
移築されたと伝承されていますが、
1955年(昭和30年)の解体修理では
そのような形跡は発見されませんでした。
これは、嘉永6年(1853年)に
8割近くが大修理されており、
築城当時の建築物は
発見出来ない可能性も指摘されています。
また、この北側には
深さ10m×幅15m×長さ40mの堀跡があります。
ここから上部と下部を明確に分断しています。
専門家は、上部の曲輪はこの堀切があることで、
下部の曲輪で食い止め強固に守られる反面、
上部から下部へ、下部から上部への
戦力の柔軟な運用が難しくしている点を指摘しています。
<京極丸・小丸・山王丸>
堀切より北側には、中丸、京極丸、小丸、山王丸と続いています。
中丸は大堀切の北側にあり、
三段からなる階段曲輪で、
それぞれの段で横矢を築いています。
京極丸は京極氏の屋敷があった場所と伝わっています。
けれども 浅井久政、浅井長政時代には京極氏は河内城にいました。
また、浅井亮政が旧主京極氏を
幽閉していた場所だったので
京極丸と名づけられたともいわれています。
城内では千畳敷曲輪に次ぐ
二番目に広い曲輪跡です。
京極丸の北側に小丸がありますが、
この場所は浅井久政が切腹し果てた場所で、
左右2段の曲輪からなります。
主郭部の最も北側にあるのが山王丸です。
山王丸は神社が祀っていたと考えられ、
現在は名称が小谷神社にかわり
小谷寺の一角へ移っています。
4段から成り、詰めの曲輪でもあります。
また、山王丸の東側には高さ5m程の大石垣があり、
また各曲輪の虎口にも石垣が確認できます。
石垣は鉄砲が伝来すると共に急速に広がっていきましたが、
まだ戦国時代末期では国人の私的権力では構築が困難で、
寺社に属する石工集団を動員する必要があります。
近江国では六角氏のような守護に近い権力が必要でした。
そこで浅井氏は自らの権力を配下の国人衆や、
浅井氏の湖北での正当性や優位性を見せつける必要があり、
石垣が築かれることによって
浅井氏も国人から
戦国大名になったのではないかとの指摘があります。
【金吾丸】
大永5年に朝倉宗滴が入城、
5ヶ月間在城し六角定頼との調停をした際に使用されました。
【月所丸】
尾根に複数の堀切と土塁が残ります。
【大嶽城】
山王丸から谷筋へ下り、
さらに山道を登った所に大嶽城があり、
小谷城の支城の一つとして機能していました。
ここは小谷城の主郭部からは100メートル以上高く、
小谷山の頂上もここにあります(海抜495メートル)。
現在は元亀年間に
朝倉軍が駐留した際に築かれたと考えられています。
曲輪・横堀群などが残されています。
これらの遺構は直角に成型されており、
小谷城の主郭部より高度な技術が推測されます。
浅井亮政の築城当初は、
小谷城はこの大嶽にあったとの説もある程です。
考古学的に裏付けるものはありませんが、
六角氏の天文年間の文書には、
「大嶽」の単語がいくつか見られるそうです。
【福寿丸・山崎丸】
大嶽城から見ると南に二本尾根が分かれています。
うち東側の一本が小谷城の主郭部ですが
西側のもう一本にも小規模ながら城郭の遺構が残されています。
(1)朝倉軍説
これらは大嶽城と同じく
元亀年間に援軍に来た朝倉軍が築いたものと考えられ、
江戸時代の地誌などから
「福寿丸」「山崎丸」と現在では呼んでいるそうです。
これらの遺構は、長方形に成形され
、当時としてはとても高度なものであるそうです。
(2)羽柴秀吉説
一方、福寿丸や山崎丸に現在残る遺構は
浅井・朝倉両氏滅亡後に羽柴秀吉によって
築かれたものとする説が近年提示されています。
福寿丸と山崎丸の両方にある土塁挟みの虎口は、
虎御前山城の(伝)木下秀吉陣に存在する
虎口に類似しているそうですが、
朝倉氏の城にはみられないとのことです。
また天正3年(1575年)の越前一向一揆の際、
織田信長は秀吉の守る小谷城に宿泊して軍の兵糧を調達し、
翌日に敦賀に着いたという記述が
『信長公記』にあることによるそうです。
【廃城】
その後、浅井氏の旧領のうち
伊香郡・浅井郡・坂田郡は羽柴秀吉に与えられましたが、
秀吉は琵琶湖から離れた小谷城を嫌い、天正3年(1575年)に
北国街道と琵琶湖に面しており港もある今浜に
新たに築城して居城としました。
これが長浜城で、そのため小谷城は廃城となり、現代に至ります。
【交通アクセス】
<電車でのアクセス>
JR北陸本線 「河毛」駅
湖北町タウンバス 小谷山線 小谷城址口 下車
<貸自転車>
<車でのアクセス>
北陸自動車道 長浜IC⇒国道365号⇒伊部林道
<駐車場>
中腹の番所跡に無料駐車場有。
但し、繁忙期は使用不可でふもとからシャトルバスになる、らしいです。
<徒歩>
河毛駅より徒歩約30分程度で登山口。
登山口から本丸曲輪部分へは徒歩約25~40分
(道は岩が多く歩きづらい。)
熊出没注意!!
<小谷城戦国歴史資料館で入手>
入館するともらえます。
<史跡 小谷城跡案内図・表>
<史跡 小谷城跡案内図・裏>
登城の際は、長袖・長ズボン・帽子・
トレッキングシューズなどの服装で
登城されることをお勧めします。
飲料水とクマよけの鈴やラジオで音を鳴らしながら
登城しましょう。
また、虫よけは勿論、ヒル除けのスプレーを首筋や
足元に噴射することもお勧めします。
スズメバチなどの攻撃的なハチに遭遇したら、
慌てず、ゆっくりと遠ざかりましょう。
安土城です。
安土城登城記・日本100名城スタンプ設置施設の紹介