長良川鵜飼~岐阜の長良川~1300年続く幽玄の伝統漁法

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【長良川鵜飼】

長良川鵜飼(ながらがわうかい)とは、
岐阜県岐阜市の長良川で
毎年5月11日から10月15日まで
行われる鵜飼でのことです。
中秋の名月と増水時を除く毎夜行われます。
中秋の名月に行われないのは、
篝火で驚かせた鮎を捕らえる鵜飼では、
「月が明る過ぎると篝火の効果が薄れるため」
といわれていますが、
他の満月の際には催されるので、
これは伝統的な公休だと認識されています。

【現在における鵜飼の位置づけ】
起源は漁としての鵜飼ですが、
現在は古典漁法を今に伝える
観光及び文化・宗教的行事としての鵜飼です。
そのうち宮内庁の御料場で行われる
8回の鵜飼は「御料鵜飼」と呼ばれ、
獲れた鮎は皇居へ納められます。

【長良川鵜飼の特徴】
長良川における鵜飼は
日本で唯一皇室御用の鵜飼です。
長良川の鵜匠は職名を
宮内庁式部職鵜匠といいます。

【国・県・市の指定文化財】
長良川の鵜飼用具一式122点は
国の重要有形民俗文化財、
長良川鵜飼漁法は
岐阜県指定重要無形民俗文化財です。
鵜匠家に伝承する鮎鮓製造技術、
長良川鵜飼観覧船造船技術、
長良川鵜飼観覧船操船技術は
岐阜市指定無形民俗文化財となっています。
鵜舟

【長良川鵜飼の歴史】

正倉院所蔵の大宝年間の戸籍から、
1300年以上前、
既に鵜飼いを生業とする集団が
美濃国に居たと推測されています。
時の権力者たちに保護されてきました。



【平安時代】
延喜年間(901年~923年)、
長良川河畔に鵜飼7戸の記録があり、
藤原利仁は、その7戸の鵜飼に鮎を献上させ、
天皇の気に入り方県郡七郷の地を
鵜飼に要する篝松の料としてたまわり、
鵜飼七郷と呼んだそうです。

【源頼朝】
平治の乱で源頼朝が源義朝と敗走する時はぐれ、
長良川河畔をさまよった末に
鵜飼の長である白明の家にて宿泊しました。
そこで鮎鮨等にて持て成しを受けたとあります。
その後、建久3年、
右大将として上洛する際に、
白明の子を呼び出して恩に報い、
また毎年鮎鮨を鎌倉に送るよう命じたとのことです。

鎌倉大仏2

【織田信長】
永禄7年、織田信長は
長良川の鵜飼を見物し、
鵜飼それぞれに鵜匠の名称を授け
鷹匠と同様に遇し、
1戸に禄米10俵を給与しました。

若き織田信長

【徳川家康・江戸時代】
元和元年(1615年)、
徳川家康が鵜飼を見物し、
石焼きの鮎に感賞したとあります。
以来、江戸城に毎年鮎を献上するのが
慣例となりました。
鵜匠21戸に各10両の扶持を給与しました。
このようなことから、江戸時代においては
徳川幕府および尾張家の
保護のもとに行われていました。
その後、鵜飼は衰退し、
文化2(1805年)年には12戸となります。
その12戸に毎年120石、
532両2分を給与すると
再び回復したとのことです。

【明治以降】
明治維新後は一時有栖川宮御用となりましたが、
明治23年に宮内省主猟寮属となり、
宮内省(現宮内庁)の直轄となりました。
長良川の鵜匠は職名「宮内庁式部職鵜匠」です。

【宮内庁式部職鵜匠】
長良川鵜飼(岐阜市における観光鵜飼)の
鵜匠職を拝命されているのは、現在6名です。

【御料場】
御料鵜飼でのみ漁を許可している、
一般に漁の出来ない禁漁区のことです。

<岐阜市古津地区>
<美濃市立花地区>



【観光鵜飼】

長良橋の上流付近で
行われる観光のための鵜飼。
篝火を焚いた鵜舟がゆっくりと現れ、
鵜が鮎を捕らえる様子を
観覧船から眺める事が出来ます。
御手洗船や花火や
飲み物などを売る売店船もあり、
岸に上がることなく
鵜飼を楽しむ事ができます。
屋形船には、飲食物持ち込みOKです。
真夏以外は冷えるので、
羽織物があるとよいと思います。

観覧船の乗客数は、
外国人に人気が高まっています。
岐阜市は英語ガイドの配属、
観覧船乗り場付近での
無料Wi-Fi整備などにより
外国人誘客を進めています。

乗船前には乗船場にて、
鵜匠による鵜飼の説明が行われます。
通常の鵜飼日は1回制鵜飼で、
6隻の鵜舟が観覧舟の前を1往復します。
納涼鵜飼日は2回制鵜飼が行われますが、
年8回の「御料鵜飼」と重なると、
時間はどうしてもずれこみます。

【スケジュール】

【1】受付
鵜飼 観覧船

【2】
鵜飼説明⇒鵜飼観覧船のりばにて鵜匠による鵜飼の説明。

【3】
乗船。
靴は脱いで渡されたビニール袋にいれて手元におきます。

【4】
出船
鵜飼 観覧船乗船

【5】
停泊⇒川岸に停泊し鵜飼が始まるまで食事等。

尚、乗船した日は、
五木ひろしさんの「長良川艶歌」の曲が流れ、
余興船がやってきて、
着物姿のお姉さま方の舞が披露されていました。
長良川鵜飼 余興

【6】
鵜飼 ⇒鵜飼を開始する合図の花火が上がり鵜飼開始。

【7】
狩り下り⇒観覧船と鵜舟が併走し川を下ります。
付け見せ
⇒鵜舟が川を下り、鵜飼を行うさまを
停泊したままの観覧船から観ます。
※天候や川の増水などによりどちからになります。

観覧した日はあいにくの雨で「付け見せ」でした。

鵜飼開始

鵜飼中 

<動画>

しばし休憩。
先ほどの余興船がまたやってきます。



【8】
(総がらみ)
6隻の鵜舟が横隊になり、
浅瀬に鮎を追い込んで巻き狩りする漁法。
鵜飼 総がらみ

浅瀬に追い込みます。
鵜飼 総がらみ 浅瀬

<動画>

<6隻の鵜舟(写真は5隻ですが)>
鵜舟の移動

<動画>

【9】
下船

【鵜舟】
長良川 鵜舟
※「観覧の手引き」より

【装束】
長良川鵜飼 装束
※「観覧の手引き」より

【うーたん】
 岐阜市の長良川鵜飼PRキャラクター。
岐阜市が長良川鵜飼を
全国にアピールするため
募集したデザインの中から
選ばれた鵜をデザインして誕生しました。
通常は鵜匠の衣装を着ています。
2012年年8月1日、
岐阜市の特別住民登録を受け、
特別住民票が交付されました。
※イラストですが、本体はいます。
長良川鵜飼 うーたん
※「観覧の手引き」より

【鵜について】
鵜飼に使用する鵜は海鵜です。
川鵜に比べ海鵜の方が
体が大きく丈夫だからです。
野生の海鵜を捕獲してきて、
鵜匠は鵜と生活を共にして
2~3年訓練した後、
一人前の鵜として育てて
鵜飼で使用されます。
鵜の一番の働き盛りは
7年目から10年目と言われています。
なお、茨城県日立市が
日本唯一のウミウの捕獲供給地です。
鵜匠は自宅に
20羽前後の鵜を飼っています。
漁に出る数時間前に
全ての鵜を捕まえ鵜篭に入れ、
その日の鵜の体調を見極め、
漁に連れて行く鵜を決めるのだそうです。
鵜への餌やりは1日1回で、
シーズン中は餌の量を少なくし、
漁に行く前は常に
空腹状態にさせているそうです。



【鵜鮎】
鵜が捕った鮎は「歯形の鮎」といわれ、
鵜のくちばしの痕が付いています。
くちばしで鮎を瞬殺するため、
新鮮で美味しいといわれています。
この鮎は通常市場では出回ることのない
貴重で高価なものですが、
観光旅館やホテルによっては
鵜匠と契約し鵜鮎を賞味できる所もあるそうです。

【鮎】
鮎は川と海を回遊する魚です。
成魚では30cmほどに成長します。
秋に生まれて約1年で一生を終えるため、
「年魚(ねんぎょ)」と呼ばれています。
また、香りが良くて
「香魚(こうぎょ)」の別名があります。
美味しい鮎が育つためには、エサとなる
上質なコケが必要となります。
鮎が「縄張り」を作るのは、
他の鮎から餌場を守るためです。

【長良川岸の道路(金華山の対岸)】
車両は通行できますが、駐車場の様な受付で
通行の受付をします。
すると写真中央にある
「緑色」のポールが下がって
道路の中に埋まって通行できます。
長良川岸の通行受付

<長良川沿い>
長良川沿い

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