掛戸松島 ・尼子水軍の拠点として、石見銀山を結ぶ交通の要衝。

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【掛戸松島】

鎌倉時代に波根湖を開削したときにできた切り通しで、
屹立する岩が見しい記念碑的島。

掛戸松島 やや遠景

【規模】
高さ20m

【波根湖】
波根湖(はねこ)は、かつて
島根県大田市久手町波根西に存在した潟湖でした。
東西1.6キロメートル、
南北0.8キロメートルにおよぶ汽水湖で、
周囲は4キロメートル以上であったそうです。
水深は最大で3メートル前後でした。

湾の入口に砂州が発達することによって、
湾の奥の部分が海から隔離されて
成立した湖であったそうです。
それゆえ、湖面と海面の高さがほぼ同じで、
海水が湖に流入しやすく、
淡水と海水が混じる汽水となっていました。

波根西の柳瀬地区が、
湖と日本海との間に挟まれた砂嘴にあたるとのことです。

【波根湖の歴史】
中世の西日本海水運の要として、
沿岸の「番你(はね、波根西の大津地区)」、
「山子介(刺鹿(さっか))」の2港が栄えていた、
と「明史」図書篇や、
「籌海図編(とうかいずへん)」・
「日本風土記」などの地誌に、
浜田、温泉津、都野津、長浜、江津の
5港とともに掲載されているとのことです。

【尼子水軍の拠点として】
対岸の丘陵には尼子氏の重臣であった
牛尾久信の築いた鰐走城があり、
波根は尼子水軍の拠点だったことから、
尼子氏の本国のある出雲国と
石見銀山を結ぶ交通の要衝だったそうです。

水深は最大で3メートル前後であったという
その浅さから、近世から再三にわたって
干拓や埋め立てを繰り返されてきました。
宝暦12年(1762年)に、
石見銀山領の代官であった
川崎平右衛門は湖北の山地を開鑿させ、
代官見立新田の開発と
掛戸水路の改修を実施しています。
その後も、切添新田の造成により、
湖面が狭められてきていたのでした。



【波根湖の消滅】
戦中から戦後にかけての干拓事業によって、
波根湖はその姿を永遠に消滅させてしまいました。
この事業は、昭和16年(1941年)に立案され、
2年後に着工されましたが、
戦局の悪化や水害により一時中断されたのでした。
戦後の食糧難から昭和23年(1948年)から
工事が再開され、2年で陸地化し、
昭和26年(1951年)に工事終了となりました。

堤防で水の流れを遮り、
ポンプで排水し湖底を陸化するという、
汽水の潟湖を干拓した事業としては
国内の先進例でした。
土壌に関する事例に関する調査とその対策は、
同じ汽水湖である八郎潟の干拓など、
後に全国各地で実施された
干拓事業に応用されたのでした。

干拓後は、塩害や粘土質の
土壌の問題に苦しめられました。
水田の一部は海抜0メートル以下で、
排水ポンプ施設の老朽化により、
雨水の排出に苦慮し、
1993年より
土地改良総合整備事業で
農道や排水施設等を整備しているとのことです。

<掛戸松島の周辺>
案内板と駐車スペースがあります。
掛戸松島 案内板

【所在地】
〒694-0051 島根県大田市久手町波根西
【交通アクセス】
山陰本線波根駅から徒歩で10分程度
<駐車場>
2~3台位のスペースあり。

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