【横田城】
岩手県遠野市所在の横田城(よこたじょう)を紹介します。
別称、護摩堂城とも言われているそうです。
鎌倉期から戦国期の城郭で
阿曽沼(あそぬま)氏の居城でした。
護摩堂山にあり、両側を沢で囲まれた扇状地で
猿ヶ石川に面した緩斜面地となっており、
300x200mの台地に幅の広い空濠が残っています。
城下には家臣屋敷が配されて、一日市などがありました。
文治5年(1189年)もしくは(1213~19年)に、
阿曽沼広綱の次男親綱が護摩堂山に創建したと伝えられています。
全面を流れている猿ヶ石川がたびたび洪水を起こし、
対岸に居住する諸士の往来の被害を避けるため鍋倉山に新城を築いて移り、
天正年間に放棄されるまでの数百年、遠野地区の政治的中心でした。
護摩堂城が鍋倉山に移ったさい、
鍋倉城、あるいは旧居城の名前を受けて横田城とも呼ばれました。
<地図>
駐車場はないので、ふもとに止めて、
階段を上るほかありません。
落葉の頃か、新緑の頃がおススメかと思います。
それ以外は緑生い茂る道となるようです。
【阿曽沼氏】
藤姓足利氏の一族で、
足利有綱の四男阿曽沼四郎広綱を祖とする佐野氏族です。
天正年間(1573~92年)のはじめ、
広郷のときに横田鎌倉城に拠って最盛期を迎えましたが、
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず
独立大名から南部氏配下となりました。
その後、広郷の子である広長が南部氏に属し、
上杉景勝攻めの最上出陣中の留守の間に、
一族である鱒沢城主 鱒沢広勝、横田城留守居役の上野広吉、
平清水平右衛門の三人が首謀者となって主家に叛逆し、
鍋倉城を占領され領地の遠野を奪われて
城に入ることが出来ず、妻子は脱出の途中殺害されてしまいます。
広長は妻の実家にあたる気仙郡世田米城に走り、
伊達氏等の支援で気仙勢を借り受けて三度にわたり
遠野に攻め込み、奪回を図るも失敗、
広長は伊達領に身を寄せて生涯を終え、
遠野阿曽沼氏の嫡流は断絶しました。
その後、遠野の所領を安堵された鱒沢氏らも、
謀叛を企てたとされ、
南部利直によって切腹を命じられ滅びました。
【安芸阿曽沼氏】
広綱の次男である親綱は
安芸国世能庄を承久の乱後に得ていました。
この安芸国へも阿曽沼氏は親綱の孫・光郷の子孫が土着しています。
南北朝期から観応の擾乱まで一貫して幕府方に属し、
応仁の乱や尼子氏との戦いに参加しています。
元寇の前後に鳥籠山城を築城したとされます。
以後、鳥籠山城(とこのやまじょう)を居城として、
阿曽沼広秀のとき、
安芸国の覇者となった毛利氏に属することになりましたが、
約350年にわたり国人領主としての独立性を維持してきました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、
毛利氏が防長移封されると阿曽沼氏もそれに従い、
鳥籠山城は廃城となりました。
江戸時代に入ると長州藩士として続きました。
鳥籠山城(とこのやまじょう)は、
安芸国安南郡世能荒山荘
(現・広島県広島市安芸区中野)にあった日本の城です。
<地図>
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