出石城~但馬の小京都~山名氏の本拠地・有子山城址の麓で出石そばを食す、川崎尚之助の生誕地

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【出石城】

出石城(いずしじょう)は、
兵庫県豊岡市出石町にあった日本の城です。
続日本100名城に選定されています。

<登城門>
出石城・登城門

【所在地】
兵庫県豊岡市出石町内町

【築城主】
小出吉英

【主な城主】
小出氏、松平忠周、仙石氏

【築城年】
1604年

【廃城】
1871年

【形態】
平山城

【遺構】
櫓、石垣、堀

【歴史】
【山名氏】
山名氏の最盛期、
但馬国守護となった山名時義(やまな ときよし)が、
出石神社の北側の此隅山に、
此隅山城(このすみやまじょう)を築いたとされます。
築城年は、
文中元年/応安5年(1372年)とも伝わります。
此隅山城は長らく山名氏の本拠でした。
けれども
永禄12年(1569年)、
織田軍の羽柴秀吉による但馬遠征で落城しました。
山名祐豊(やまな すけとよ)は一度は城を失いましたが、
今井宗久の仲介によって、
織田信長と和睦することができ、
領地に復帰しました。

天正2年(1574年)、
山名祐豊は標高321mの有子山山頂を天守とする
有子山城(ありこやまじょう)を築き、本拠を移しました。

<有子山城>※国の史跡です。
有子山城

麓には下館も築かれ
小城下町の体を成していきます。
けれども、毛利氏方についたため、
天正8年(1580年)、
羽柴秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城、
但馬国山名氏はここに滅亡しました。

<有子山城址・登城の説明>
有子山城・登城コース



【小出氏】
有子山城は、
しばらく城代の時代が続きましたが、
天正13年(1585年)から前野長康、
文禄4年(15955年)から
小出吉政(こいで よしまさ)が城主を務めました。
関ヶ原の戦いにおいて、
小出氏は家名存続のため、小出吉政が西軍、
弟である小出秀家は東軍に分かれて戦いました。
なお、小出吉政は石田三成方として、
細川幽斎(細川藤孝)の籠る田辺城を攻めています。
弟である小出秀家(こいで ひでいえ)の功績により、
小出吉政の西軍への加担の責任は問われず、
出石の領土は安堵されました。

<出石城と風鈴>
出石城と風鈴

【江戸時代】
慶長9年(1604年)、
小出吉政の子である
小出吉英(こいで よしひで/よしひさ)により
有子山城の山上の丸および天守部分が廃され、
有子山城山麓の郭および館のみを出石城と命名し、
幕府に居城として届けました。
それにともない平地に、
堀で囲まれた三の丸が築かれ、
下郭、二の丸、本丸、稲荷丸が階段状に築かれました。
城主の居館も成り、このとき城下町も整備され、
出石の町並みが形成されたとされます。
山上の旧有子山城天守は、
城割は行われませんでしたが、
幕府を憚り荒れるに任されたため樹木が生い茂り、
一見したところ山林となってしまいました。
なお、一国一城令により、
但馬守護山名氏以来の出石城が
但馬国唯一の城郭となっています。

<隅櫓(すみやぐら)>
出石城・隅櫓

江戸時代は、出石藩の藩庁となり、
小出英及が元禄9年(1696年)に、
数え年わずか3歳で死去すると
小出氏は無嗣改易となりました。
代わって、
松平(藤井)忠周(まつだいら ただちか)が入城しました。
宝永3年(1706年)に
松平忠周が転封となると、
仙石政明(せんごく まさあきら)が入城し、
廃藩置県まで仙石氏の居城となりました。
なお、江戸末期には仙石騒動がおこっています。

【明治時代以降】
明治時代になり、廃城令で出石城も取り壊されました。
辰鼓楼、堀、石垣などが現存、
また隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、
堀の周囲一帯は登城橋河川公園として整備されて、
現在は観光地となっています。

<辰鼓老(しんころう)>
明治4年(1871年)に旧三の丸大手門脇の
櫓台に時刻を知らせる太鼓を叩く櫓として建設されました。
明治14年(1881年)に医師である池田忠恕氏が
大時計を寄贈してからは、日本最古の時計台として
親しまれているとの事です。
辰鼓楼

2017年(平成29年)4月6日、
有子山城とともに
続日本100名城(162番)に選定されました。



スタンプ設置場所は出石城及び有子山城ともに
いずし観光センターです。
住所⇒兵庫県豊岡市出石町内町104−7
電話⇒0796-52-6045
(大手前有料駐車場の前)

<出石城と有子山城址>
出石城と有子山城址

<場所>
青印は出石城址の前にある大手門前駐車場付近(400円)。

●毎年4月第3日曜日に、
(リーフレットには4月初旬と記載されています)
わんこそば形式の大食い大会
「出石名物そば喰い大会」が出石城で開催されます。

●11月初旬には、
出石皿そば・新そばまつりが開催される模様です。

【出石皿そば】

江戸時代中期の宝永3年(1706年)、
信濃国上田藩より
但馬国出石藩に国替えとなった仙石政明が、
蕎麦(信州そば)職人を連れてきたことに
始まるとされています。
現在は割り子そばの形態をとっており、
この形式となったのは幕末の頃とのことです。
屋台で供される際に、
持ち運びが便利な手塩皿(てしょうざら)に
蕎麦を盛って提供したことに始まるとされています。
昭和30年代(1955年-1964年)に
「出石皿そば」として現在見られるスタイルが確立されました。

【食し方】
店舗では通常一人前5皿で供されます。
1皿に盛られた蕎麦の量は2~3口程度であり、
1皿単位での追加注文も可能な店が多いです。
蕎麦は実を丸引きしており、色は茶褐色です。
徳利に入ったダシと、薬味として、
刻みネギ・おろし大根・おろしワサビ・トロロ・
生鶏卵1個などが出されます。
わさびはおろさずにそのまま出てきて、
客が自分でおろすようになっている場合もあります。
出石そば・薬味

蕎麦猪口にダシと薬味を好みの量分を入れ、
蕎麦を浸して食します。
以前は出雲割り子そばのように、
皿に直接ダシと薬味をかけて食していたそうです。
「挽きたて」「打ちたて」「茹がきたて」
の「三たて」が伝統的な信条とされているそうです。
出石そば

蕎麦を盛る小皿は、
出石焼で各店舗オリジナルの絵付けがされており、
各店の皿を見るのも楽しみ方の一つとされています。

お店では一人前が5皿ですが、
地元では、食べたお皿を重ねて箸の高さになると、そ
ば通と言われているそうです。
決められた量のそばを食べると、
そば通の証などの記念品がもらえるお店もあるとのことです。
出石蕎麦屋・官兵衛

【川崎尚之助・生家跡】

川崎 尚之助(かわさき しょうのすけ、
天保7年(1836年)11月⇒
明治8年(1875年)3月20日)は、
江戸時代末期(幕末)の洋学者、会津藩士でした。
尚斎と号しました。

一説によりますと、
但馬国において、
出石藩士川崎才兵衛の子として
生まれたとされています。
川崎尚之助

成長後、江戸に出て、
坪井為春らに蘭学、舎密術(化学)を学び、
神田孝平、加藤弘之らと並ぶ
屈指の洋学者として知られたということです。

江戸において会津藩の山本覚馬と知り合い、
その縁から、
会津藩藩校である
日新館の蘭学所において蘭学を教え、
鉄砲・弾薬の製造も指導しました。
慶応元年(1865年)、
山本覚馬の妹である八重(後の新島八重)と結婚します。
会津戦争では、
八重と共に鶴ヶ城籠城戦に参加しました。



その後の尚之助ですが、
会津松平家の家名存続が許され、
下北半島に3万石で立藩された斗南藩に移住、
外国商人と米の取引を行いましたが、
詐欺に遭ってしまったために訴訟を起こされ、
裁判中の東京で肺炎のため死去したとされています。

2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」では、
長谷川博己(はせがわひろき)さんが演じられていました。
なお、長谷川博己さんは2020年のNHK大河ドラマ
「麒麟がくる」で主人公の明智光秀を演じられます。

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