【富士山本宮浅間大社】
富士山本宮浅間大社
(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は、
静岡県富士宮市にある神社です。
式内社(名神大社)、駿河国一宮です。
旧社格は官幣大社で、
現在は神社本庁の別表神社です。
社家は富士氏です。
全国に約1300社ある浅間神社の総本社です。
本宮は「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」
の構成資産の一つとして
「富士山本宮浅間大社」の名称で、
また、富士山頂の奥宮および末社の久須志神社が
「富士山域」の一部である
「山頂の信仰遺跡群」の一部として
世界文化遺産に登録されています。
富士山を神体山として祀る神社であり、
境内は以下の2宮からなっています。
<本宮>
富士山南麓(富士宮市街地)
<奥宮>
富士山頂上
駿河国一宮(旧官幣大社)であり、
東海地方最古の社となります。
ご神体は富士山、ご祭神は
木花之佐久夜毘売命
(このはなのさくやひめのみこと
(別称:浅間大神(あさまのおおかみ))
徳川家康が造営した本殿は国の重要文化財、
境内に湧出する富士山の
雪解け水からなる「湧玉池」は
国の特別天然記念物です。
【主な例祭】
秋の例祭(11月)、
源頼朝が奉納したことに始まる
やぶさめ祭(5月)や
富士山開山祭(7月)などが行われます。
【桜と大宮司】
祭神を木花之佐久夜毘売命とし、
祭神にまつわる桜を神木として
境内には約500本もの桜樹が奉納されてます。
また、古来より富士氏が大宮司を務め、
「日本三大宮司」の1つに数えられています。
◆安芸の厳島
◆尾張の熱田
【歴史】
古くより朝廷・武家からの崇敬が深かったほか、
社地は大宮・村山口登山道の
起点に位置することもあり、
古くから登山を行う修験者からの
崇敬も受けていました。
【正式名】
古くは「延喜式神名帳」に
「浅間神社」と記載されていました。
明治時代には「富士山本宮浅間神社」が
正式名でしたが、
昭和57年(1982年)から
現在の正式名「富士山本宮浅間大社」となり、
「浅間大社」の略称が多くで用いられています。
【「浅間」の由来】
「浅間」の語源については諸説あります。
そのひとつとして、
長野県の浅間山のように
火山を意味するとされています。
「あさま」は古い呼称で、
現在の「せんげん」は
中世以降から用いられたと
見られています。
また、「本宮」は
静岡浅間神社(新宮)
に対する呼称であるとのことです。
そのほか、古来は「富士ノ宮」「富士本宮」
「富士浅間宮」なども社号として
用いられていたとのことです。
「ふじの宮」という呼称もあり、
北条泰時が浅間社参拝の折に詠んだ
和歌の詞書に記載があるとのことです。
(「新勅撰和歌集」所収)。
またこの語は、浅間大社が鎮座する
富士宮市の市名の由来となっています。
神仏習合時代は「富士権現」のほか、
「大宮権現」・「富士浅間権現」などとも
称されていました。
【ご祭神】
<主祭神>
木花之佐久夜毘売命
(このはなのさくやひめのみこと)
別称を「浅間大神 (あさまのおおかみ)」。
神名は史書によっては
「木花咲耶姫命」等とも記されていますが、
浅間大社側では「古事記」に載る表記を
正式名として採用しているとのことです。
「木花」は桜のことといわれ、
同書では美しい女性として表現されるほか、
火中出産の説話が記されています。
<配神>
瓊々杵尊(ににぎのみこと)
木花之佐久夜毘売命の夫神。
大山祇神(おおやまづみのかみ)
木花之佐久夜毘売命の父神。
【創建伝承】
寛政年間(1789年-1801年)に
大宮司の富士民済により
記された社伝
「富士本宮浅間社記」によりますと、
第7代孝霊天皇の御代、
富士山が大噴火をしたため、
周辺住民は離散し、
荒れ果てた状態が長期に及んだとあります。
第11代垂仁天皇はこれを憂い、
その垂仁天皇3年(前27年)に
浅間大神を山足の地に祀り
山霊を鎮められたとのことです。
これが起源とのことです。
【山宮鎮座】
最初に祀られた「山足の地」は、
特定の地名を指すのではなく、
富士山麓の適所を選んで
祭祀を行った事を示すと考えられています。
特定の場所に祀られるようになったのは、
山宮(現在の鎮座地より北方約6キロ)
にお祀りされてから後のことです。
山宮は社殿が無く古木・磐境を通して
富士山を直接お祀りする
古代祭祀の原初形態を残す神社です。
そして景行天皇の時代、
日本武尊は駿河国で賊徒の計にかかり
野火の難に遭った際に
浅間大神に祈念して難を逃れたので、
賊徒を平定した後に山宮(現 山宮浅間神社)に
磐境を設け浅間大神を祀ったとのことです。
【大宮遷座(現在地)】
大同元年(806年)、
平城天皇の命により
坂上田村麻呂が現在の大宮の地に
社殿を造営したと伝えられています。
なお同記によりますと、
元々は大宮の地は「福地神」の社地でしたが、
山宮より浅間神が移るにあたって
こちらも遷座したということです。
現在は 富知神社とされています。
富士山の神水の湧く地が
御神徳を宣揚するのに
最もふさわしかった為ではないかと考えられています。
【富知神社について】
元々大宮に鎮座したという富知神社は
現在本宮境内の北方に鎮座しており、
大宮の地主神として古くから
浅間大社の祭祀に深く関わっていましる。
「富知」の神名は「富士」の山名と
深い関係が考えられることに加えて、
湧玉池を祭祀場として
富士山を水神の神格で
祀っていたと考えられています。
このことから浅間神の遷座は、
富士信仰が水の神たる
「フクチ・フジ」信仰から
火の神たる「アサマ」信仰へ
転換したことを表す象徴的な出来事だと
解されているとのことです。
【密やかな伝承】
山梨県と神奈川県を流れる桂川・相模川流域に沿って
ほぼその流域のみに点在している
「石楯尾神社(いわたておのじんじゃ)」があります。
その中でも一部の「石楯尾神社」には伝承があります。
「石楯尾神社」には「烏帽子岩」がかつてご神体として
存在し、巨岩信仰がありました。
そしてその巨岩は富士山から飛んできて
富士神界の中心地であったとも、
昔々、富士山麓には「富士王朝」があり、
其の王朝が何らかの理由で滅び、
逃れてきたとも。
一見すると「トンデモ系」」として
片付けられてしまいがちですが
古代において、何らかの大規模な政変や
災害が起こったことの示唆ではないかと
思う次第です。
ちなみに相模川には
縄文時代の集落跡である
勝坂遺跡がありその遺跡から湧き出る泉は
「有鹿(あるか)神社奥宮」でもあります。
そしてその下流には八方除けで有名な
「寒川(さむかわ)神社」があります。
【平安時代】
貞観6年(864年)から貞観8年(866年)に
多くの被害を出した富士山の貞観大噴火がありました。
甲斐国でも浅間神を祭祀することとなり、
浅間信仰は甲斐側にも広がることとなったのでした。
朝廷の崇敬を受け、「延喜式神名帳」では
「駿河国富士郡 浅間神社 名神大」
と記載されて名神大社に列しました。
また駿河国一宮としても崇敬されました。
駿河国府の近くには、
浅間大社から勧請を受けて
浅間神社(現 静岡浅間神社の一社)も創建されました。
「本宮」の浅間大社に対し、
そちらは「新宮」と呼ばれています。
なお、甲斐国の浅間神社も
同国では唯一の名神大社に列し、
浅間神に対する崇敬の深さがうかがわれています。
【鎌倉時代から戦国時代】
【富士の巻狩と流鏑馬の奉納】
鎌倉時代には源頼朝の社領の寄進や
北条義時の社殿の造営といった
当時の実力者からの崇敬を受けています。
社伝(「富士本宮浅間社記」)によりますと、
源頼朝が富士の巻狩を行った際、
流鏑馬を奉納したことが
浅間大社の流鏑馬の起源とされています。
<流鏑馬像>
<流鏑馬縁起>
【南北朝時代】
後醍醐天皇の土地の寄進のほか、
武家からは社領の寄進や
修復が重ねて行われました。
南北朝時代には
足利尊氏や足利直義による社領の寄進、
今川範氏や今川泰範らの土地の安堵や
諸役の免除などが行われたのでした。
【武田信玄・武田勝頼】
武田信玄は願状を捧げ、
その後武田勝頼は天正4年から
造営を進め天正6年(1578年)に
遷宮を行いました。
<信玄桜(二世)>
武田信玄が植えたとされている
枝垂れの桜です。
豊臣秀吉も社領寄進の朱印状を
発布しています。
【江戸時代】
江戸時代に入ると、
徳川家康は867石の朱印地を安堵したほか、
関ヶ原の戦いの戦勝を記念して
現在の社殿を造営しました。
慶長14年(1609年)には、
富士山頂における散銭取得の
優先権を得ています。
その後の歴代将軍も
祈祷料・修理料の寄進を行っており、
4代将軍徳川家綱は金1千両を寄進、
5代将軍徳川綱吉は銀50枚・金2千両、
後にも金700両を寄進しています。
10代将軍徳川家治は銀300枚を寄進しました。
その後も徳川家の歴代将軍による
崇敬が絶たれることは無かったとのことです。
また幕府により祈祷が命じられることがあり、
宝永4年(1707年)には
富士山焼祈祷により銀100枚を拝領し、
祈祷は富士氏(富士大宮司・公文・案主)と
別当が行っています。
安永8年(1779年)には
三奉行による裁許により
富士山の8合目以上が浅間大社へ寄進されています。
【現代】
<2013年6月22日>
「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の
構成資産の一部として
世界文化遺産
(日本の文化遺産としては13箇所目)
に登録となりました。
【境内】
【本殿(国の重要文化財)】
社殿は慶長9年(1604年)に
徳川家康の造営によるものです。
宝永地震(宝永4年(1707年))や
安政東海地震(嘉永7年11月4日(1854年))
などで崩壊した建物もあり、
現在は本殿・拝殿・楼門が現存しています。
安政東海地震にあたっては
「大地震に而御宮大破損記」が記され、
その被害の様子を伝えています。
本殿は国の重要文化財であり、
桁行5間・梁間4間・寄棟造の社殿の上に
三間社流造の社殿が乗り、
二重の楼閣造となる珍しい形式です。
屋根は檜皮葺であり、
この本殿の特徴的な形態は
「浅間造」と称されています。
そのほか、蟇股には
「菊花紋」と「葵紋」の
組み合わせなどが附されています。
各所に葵紋と富士氏の家紋である
「棕櫚の紋」が附され、
蟇股には菊花紋や葵紋や
五三桐紋が並んで附されています。
富士山を御神体としていることなどから、
富士山を装飾したものもあります。
拝殿は妻入りで正面が入母屋造、
背面が切妻造となっており、
本殿と同じく檜皮葺です。
内外面ともに丹塗となっています。
また古くは社僧や垢離場などが存在し、
神仏習合の形態があったとのことです。
現在は見られませんが、
「三重塔」といった
仏教的建造物も境内に位置しており、
寛文10年(1670年)の
社殿配置図に見えるとのことです。
<火山弾・南極の石>
<境内案内図>
【湧玉池】
東側には湧玉池があり、
境内に湧出する富士山からの
湧水によってできています。
何層にも重なった溶岩の間から
湧出しており、特別天然記念物に指定されています。
水源の岩上には朱塗りの水屋神社が鎮座しています。
<説明>
<指定範囲図>
<湧玉池・動画1>
<湧玉池・動画2>
【大宮道者坊】
浅間大社は大宮・村山口登山道の起点に位置するため、
富士参詣を対象とした道者坊が存在し、
社人たちが富士登山の道者に宿舎を提供しました。
これを「大宮道者坊」といいます。
<鉾立石>
楼門前の石段上にある自然石は
鉾立石といいます。
明治初年まで行われていた
山宮御神幸の際、
神鉾を休め奉った所です。
現存しているのは
本宮楼門前の1基と
山宮浅間神社参道の2基です。
<楼門>
楼門は、間口4間、奥行2間半、
高さ6間半2階入母屋造で、
正面・左右脇に扉が付きます。
楼門の左右には随身が安置してあり
背銘に慶長19年(1614年)の年号があります。
楼門に掲げる扁額は
聖護院入道盈仁親王の
御筆で文政2年に制作されたものです。
<富士宮やきそば>
大鳥居そばの売店で購入しました。
テイクアウトもできます。
【交通アクセス・本宮まで】
(電車)
JR東海・身延線「富士宮」駅より
徒歩約10分程度(800m)
新幹線新「富士」駅よりタクシーで約30分程度
新幹線新「富士」駅よりバス⇒
東海道線「富士」駅⇒身延線「富士宮」駅
(車)
◆新東名高速道路「新富士」IC⇒
西富士道路経由で約15分程度(6.5km)
◆東名高速道路「富士」IC⇒
西富士道路経由で約20分程度(9.5km)
◆山梨県側から国道139号線経由
(高速バス)
東京駅⇒富士宮間の高速バス
<要予約>
富士急静岡バス
0545-71-2495
JRバス関東
03-3275-0489
停留所:「 ジャスコ富士宮店」「富士宮駅」
【開門時間】
(11月~2月)
午前6時~午後7時(通常)
【開門時間】
(3月・10月)
午前5時30分~午後7時30分(通常)
【開門時間】
(4月~9月)
午前5時~午後8時(通常)
【祈祷受付】
午前8時30分~午後4時30分
(神楽は午後4時まで)
【所在地】
<本宮>
〒418-0067静岡県富士宮市宮町1-1
<奥宮>
富士山頂上
【駐車場】
有料駐車場があります。
祭・年末年始時は別途臨時駐車場も設けられます。
<駐車時間>
午前5時~午後7時まで
(出庫は24時間出来ます)
【トイレ】
◆祈祷殿
◆大鳥居傍の売店横
所要時間:1時間程度(飲食含む)
駿河大宮城跡~築城は国衆で神社大宮司の富士氏、武田信玄・今川氏真の駿河甲斐の国境の重要な城。
曽我兄弟の縁の地・富士宮市~井出の代官屋敷・曽我八幡宮・曽我兄弟の供養塔・曽我の隠れ岩・音止の滝
曽我兄弟の縁の場所(富士市)~化粧坂少将(姫宮神社)・曽我寺・曽我八幡宮・五郎の首洗い井戸
西山本門寺・織田信長公の首塚~感銘を受けた富士山の麓で眠っています。
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